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紫がたり 令和源氏物語 第百二話 須磨(九)

 須磨(九)

舟を下りる頃には陽が傾き、一行はかねてから申し入れていた僧房に世話になることになりました。
都の貴人が住吉大社にお参りに詣でる、という体で僧房の一部屋を借りたのです。
出された食事は精進料理で肉もなく質素なものでしたが、自然の恵みがありがたく、いただく、という感謝の気持ちを改めて思い起こさせます。
そして温かい布団で眠ることのできるありがたさも身に沁みるのでした。

翌朝の難波津は穏やかに凪いでおりました。
「この天気ならば昼過ぎには須磨に着きますよ」
重い積み荷を軽々と担ぐ船人は陽に焼けて、白い歯を見せました。
しかし船人とはみなこのように大きく屈強であるか、と従者たちも珍しそうに眺めております。
「衛士の一人にでも欲しいくらいですね」
源氏の共人の一人、右近丞(うこんぞう)の蔵人という精悍な顔立ちをした若者が感嘆の声をあげました。
右近丞の蔵人は賀茂の斎院が禊をなさったあの行列で源氏の臨時の随身として雇われた者です。なかなかの体躯で剣を得意とする強者です。
実は空蝉の夫の次男で、源氏の引き立てによって今の位を得た者です。右大臣一派からは源氏の側近と見做されて、世が代わってからは辛い憂き目を見ることが多くなりました。ですが、そうなると却ってこの君にどこまでもお仕えしようと心を決めたのです。
「丞よ、自分が楽できることばかりを考えるなよ。我ら側近の中ではお前が一番腕が確かなのだから、頼むぞ」
「心得ておりますとも。必ず君をお守りいたしますよ」
男ばかりの道行きですが、和気あいあいと、誰一人不安そうな色を滲ませないのが源氏の心の救いとなっております。
都を離れてとうとうここまで来たものだ、と感慨深くもあり、これからどうなるのかという頼りなさに一抹の不安が湧きあがりますが、源氏も彼らの為にそうした素振りを見せるわけにはいかないのです。
「海に携わる者たちはみな健康そうだな。私も浦で暮らせば頼もしくなるかもしれぬ」
などと、気安く冗談を言う源氏の君を囲み、一同で笑い合いました。

順風に乗った船旅は快適で、過ぎてゆく景色も物珍しい。
もしもこの旅路が本当に住吉の神に詣でるものならばどれほど愉快であったでしょうか。

辿り着いた須磨という地は源氏の心を表したかのように、灰色の世界に思われました。
浦人が潮を焼く、などとのどかな情景を思い浮かべていた源氏は、そのわびしさに言葉を失いました。
須磨の浜辺の潮風はビィョウ、ビョウゥ、とこれまでに聞いたことのないほど荒々しいもので、源氏は耳が裂かれるのではないかと慄きました。
「良清、須磨とはこのような寂しい浦なのか」
「源氏の君、この浜は入り組んだ海岸線ゆえに時折このような獣が鳴くような風が吹きますが、まさか初めてお越しになったこの時にもっとも強い風が吹くとは。最初にこの風を経験したならば、後の風はそよ風のように感じられるに違いありません」
なるほど、良清の頼りになる猛々しさはこのような浦にて培われたものであったか、とその前向きさに笑みがこぼれます。

世を憚る身の上でしたので、源氏は無紋の簡素な直衣を身につけています。
調度品も飾りなど無いもので、これはと持ってきたものは、選りすぐりの書籍と白氏文集、そして七弦琴一面のみ。
源氏の住まいは寂しげな山の中に構えられた茅葺の小さな邸でした。
よいところと言えば高台にあるので眼下に広がる風光明媚な海を愛でられるというところでしょうか。
それでも天気の良くない日にはことさらにわびしく感じられ、都を恋しく思わずにはいられません。
良清は先陣きって邸の修繕や庭造りに尽力し、この浦を監督する摂津守も源氏の見知っている者だったので、いろいろと世話を焼いてくれました。
そうして邸の中を左官や下人などが始終出入りしているので、邸は賑やかなのですが、心が慰められるわけではありませんでした。
ふと朝に目が覚めると、二条邸かと思って紫の上の姿を探してしまい、強い潮の香りで現実に引き戻されるのです。
その度にそっと涙がこぼれるのでした。

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