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紫がたり 令和源氏物語 第四百四十一話 幻(十)

 幻(十)

七月になると、蜩が例年にも増してやかましく鳴くのを、今年はどうやら例年よりも暑いようであるよ、と源氏はまた夏空を見上げる。
紫の上がまだこの世にいたらその過ごしづらさに苦しんでいたであろうと考えると、そのような辛い思いをさせずに良かったとも思われるのです。
何をするわけでもなく、ただただ一日が暮れてゆく。
夕暮れに前栽の撫子が照り映えて、それでも蜩は鳴くのを止めぬ。

つれづれにわが泣き暮らす夏の日を
       かごとがましき蟲の聲かな
(あの人を亡くし、つれづれ無為に過ごす私の頬にはまた涙が伝う夏の日に、鳴く蜩は私が泣いているからだとでも言っているのだろう)

螢がたくさん舞い飛ぶ宵にも思い起こされるのは紫の上のことばかり。
「夕殿に螢飛んで思い悄然」
などと、妻を惜しむ古い詩が自然に口からこぼれる。

夜を知る螢をみてもかなしきは
    時ぞともなき思いなりけり
(夜に光を放つ螢を見ても、私の上を想う気持ちは昼夜を問わず光り続けていることよ)

五節句のひとつ、七月七日の七夕の日にも、楽しく短冊を書いたり笹を飾るようなことも気乗りがしない。
それまでは例年紫の上が女房たちに梶の葉に和歌などを書かせて、言葉遊びに興じたり、夜が更けても女達の宴を催していたものでした。
七夕は牽牛と織女の逢瀬の夜。
傍らに紫の上の無いことがこれほど虚しいとは。
とても天上の恋人たちを祝う気にもなれぬ。
そんな源氏の姿を見るにつけても、女房たちも華々しく夫婦星を眺めるという気も削がれるものです。
源氏は女房たちにも申し訳なく、早々に寝所に引き下がるのでした。
しかし慣れたと思っていた独り寝の侘びしさに深更に目が覚める。
妻戸を押し開けて庭を見ると、前栽に露が降りているのが見える。
それがまたまるで涙のように思われる。

七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て
      別れの庭に露ぞおきそふ
(牽牛と職女は無事に逢えただろうか?ほんの一夜のみの邂逅とはなんとも酷きことか。後朝の別れはさぞかし辛く、庭に降りた露と同じく涙を流しているに違いない。それは私が紫の上を想う涙と同じなのだ)

もうすぐ紫の上の一周忌を迎える頃になると、何やかやと細々とした用事が増えて、気が紛れるのがありがたい。
御仏に心を寄せていたあの人を丁重に供養することこそが上の為になると己に言い聞かせ、仏事に邁進する源氏の姿は以前のようにきびきびとして、俄であるが女房たちも活気が戻ったように嬉しく感じるのでした。

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