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紫がたり 令和源氏物語 第百七十五話 薄雲(三)

 薄雲(三)

源氏が二条邸へ戻る頃には、陽はとっぷりと暮れておりました。
いつのまにか姫は可愛らしい寝息をたてて、すやすやと寝入っております。
源氏はそっと姫を抱き上げると紫の上の住む西の対へと運びました。
「まぁ、なんて愛らしい稚児なのでしょう」
紫の上はその姫の品よく愛らしい様子に声を潜めて感嘆しました。
そっと触れた頬は柔らかく、愛しさが込み上げてきます。
姫はふと目を覚ますと辺りを見回しました。
見たこともない邸で知らない女人が顔を覗き込んでいるのです。
優しげな美しい人でしたが、心細くなり母を求めて泣きだしました。
乳母は源氏の邸があまりにも立派で場違いな感じがして気圧されておりましたが、姫の泣き声を聞いて、はっと我に返りました。
「ちい姫さま、大丈夫ですよ」
いつものようにあやされて、姫も少しずつ落ち着いてきたようです。
「お腹がすいているのではないかしら」
紫の上の一言で大井を出てから乳を与えていなかったことを思いだした乳母はすぐに姫を抱き上げました。
乳母は乳をやりながら、初めて間近で紫の上を目の当りにして言葉を失いました。
まるで咲きこぼれる樺桜のように麗しい女性です。
明石の上も気品があって素晴らしいと思っていましたが、さすが源氏の北の方と言われるだけあり、並々ならぬ美女です。
そして小さい姫を愛しそうに見つめるまなざしは菩薩のように慈愛に満ちているのです。
この御方ならばきっと姫を立派に養育してくださるに違いない、と乳母は強く感じました。

明石の小さい姫は、それは慣れない二条邸に母を探そうにもその姿がなく心細くあるようでしたが、いつでも優しく抱き寄せて語りかけてくれる美しい人にとてもよくなついてしまいました。
その人は夜中に怖くて泣いても乳母よりも先に姫を抱きしめて背中を撫でてくれます。
いつのまにか手を伸ばせば必ず応えてくれるその人の手が誰よりも安心できるものだということを幼いながらに察しているかのようです。
だいたいにおいてこの姫は素直な性質であるので、今では自然に紫の上のことを「おかあさま」と、呼んで始終まつわりつくように親しんでいるのでした。
そして袴着(はかまぎ=初めて袴をつけること)の式において、大臣の姫らしく華やかにお披露目されることとなりました。

吉日として選ばれたその日は朝から晴れやかに澄み渡った空模様で、まるで天までも幼い姫の将来を祝福しているかのようです。
形式上は内祝いのような雰囲気ですが、大臣の姫の祝いとあって二条邸には客人が絶えず訪れ、贈り物が続々と届けられました。
小さい姫は袴を着せられて、その結び目も高く胸の上あたりなのがなんとも愛らしい様子です。
今までとは違う着衣で歩くのもままならず、時折よろよろとする姿も愛嬌があり、源氏も紫の上も穏やかに姫を見守る光景が幸せを絵に描いたそのままのようで笑いに包まれた一日なのでした。

明石の上と尼君は遠く離れた京で姫が源氏の娘として認められるその日を心待ちにしておりました。
相変わらず姫を手放した虚ろを埋めることはできませんが、姫が世に認められてこそ未来は明るいというものです。
大井からも何か贈り物をとも考えましたが、名だたる貴族達から贈られる品々を前に色褪せて見えるのもみっともなく、分をわきまえて立派な装束を整えて乳母や女房たちに贈ることにしました。
紫の上は届けられた贈り物を見て、明石の上の姫を想う気持ちを痛いほどに感じ取りました。
自分が産んだ娘ではありませんが、今小さい姫を取り上げられるようなことがあればどうにかなってしまいそうです。
源氏は無理強いするような人ではないので、もしも明石の上が最後まで姫を手放すことに同意しなければ今日という華々しい日は来なかったことでしょう。
それを明石の方は耐えてわたくしに姫を託してくださった。
その心に応えるように姫を立派に育て上げてみせよう、と紫の上は改めて胸に刻んだのです。
小さな娘を得て、紫の上は子供から引き離された明石の上を気の毒に思うようになっておりました。
それゆえ源氏が大井へ通うのも知らぬふりをして心を平静に保っております。
紫の上の中で女としてよりも、大きく母としての愛が育っているのでした。

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