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紫がたり 令和源氏物語 第百七十六話 薄雲(四)

 薄雲(四)

年が改まり、源氏は三十二歳、紫の上は二十四歳になりました。
二条邸は小さな姫の存在で以前よりも明るく、笑い声の絶えない様子でしたが、この年は何やら天に怪しい兆しが多く見られるようでした。
日輪に不吉な影が見られ、雪が降る時期であるのに生ぬるい雨が降ったり、得体の知れない流行り病が頻発し、人々は源氏が須磨へ退去したあの折の天変を思い起こして密かに不穏な空気に慄いておりました。
そうしているうちに太政大臣(葵の上の父)が薨去されたのです。
人臣の頼りとした帝の信頼も厚い大臣の死は人々に衝撃を与えました。
「高齢のため天寿をまっとうされた」とその在世の手腕は高く評価され、讃えられましたが、先の天の兆しもあり、俄かに人心は世の在り方に不安を感じているようです。
朱雀帝御在位の折に似たようなことがあり、この時は政事が正しい在り様ではなかったので、人民も声を高くして噂し合いましたが、現在の冷泉帝は優れた天子であり施政も源氏が主導しているので安定しております。
思わぬ天変に人々は漠然とした不安を抱いているのでした。

ただ源氏の大臣だけは、もしや、と心に懸かることがおありのようです。
それは冷泉帝が御子であるという秘された事実によるものでしょうか。
我が罪を糾弾する天からの啓示ではあるまいか、と思い悩む源氏の元に藤壺の女院がご重態であるという知らせが届けられました。

「なんとしたこと。女院が・・・」
驚愕のあまり目の前が暗くなる源氏の君です。
ますますこの天変は女院と源氏の罪を戒められているのかと感じられてなりません。
「惟光、これへ」
「殿、控えております」
「女院は御年三十七歳であった。女人の大きな厄の年ではないか」
源氏は以前から祈祷などを密かに依頼していた徳の高い僧都に女院の病気平癒の祈祷をさせるよう惟光を遣いに出しました。
すぐにでも女院の元へ駆けつけたいところですが、心が乱れて公の場で平静を保つ自信がありません。
源氏の素振りで女院への恋心が知られてしまえば、それは冷泉帝をも巻き込むスキャンダルが露見されかねないのです。
今上をお守りすることが女院の望みであろうことを慮り、軽率な行動は慎まなければなりません。

女院の御容態をお聞きになり、主上(おかみ=帝)はお見舞いの行幸をされました。
久方ぶりにお会いした母君は未だ若く美しくあるのに、少しやつれた面に目に宿る力はたいそう弱々しくなっておられるようでした。
「母上、どうぞお気を確かにお持ちになってください。母上が亡くなられれば私は天涯孤独になってしまいます」
その切ない訴えに女院は涙をこぼされました。
病気がちになってからというもの、己の来し方などを思われるにつれ、帝が本当の父がいまだ健在であることを知らぬのは大きな罪にあたるのではあるまいかと胸を痛められることが多くなった女院です。
しかしどうしてそのようにだいそれた秘事を愛する我が子に伝えられましょう。
「あなたは独りではありません。この国の民すべてがあなたの家族なのです。帝として立派に国を治められるのがあなたの責務なのですよ」
女院は母親らしく我が子を叱咤しました。
帝はその言葉を胸に刻んで流れ出る涙を拭われました。

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