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紫がたり 令和源氏物語 第百七十七話 薄雲(五)

 薄雲(五)

数々の祈祷の甲斐なくいよいよ女院の御容態が芳しくないと聞いた源氏はせめて最後にお言葉を賜りたいと乱れる心を抑えて御前に伺候しました。
仕える女房たちによると、女院はもう何も召し上がれないほどに衰弱されているということです。
そう言うそばから女房たちも涙を流して嘆くので、そのご病状はすでに改善される望みも無いように思われます。
心を強く持ってしても輝くばかりであった女院の笑顔などが思い出されるとただただ悲しみが込み上げてきて、源氏の頬には涙が伝って零れ落ちるのでした。
女院は苦しい息の下から源氏にあてて感謝の言葉を述べられました。
すでに力が尽きかけ、取り次ぎの女房を介してのお言葉です。
「桐壺院の御遺言に従い影となり日向となり冷泉帝を導いて下さったご恩は忘れはいたしません。これからもどうぞそのお力を帝にお貸しくださいませ」
源氏は返事をすることも出来ずに涙を流し続けました。
どうしてこうも心弱いものかと己が嫌になりますが、女院にお言葉を返したい一心でぐっとこらえました。
「微力ながら院の御遺志に従って今日まで勤めて参りましたが、太政大臣についで宮までこのようにご重篤であられるのにどうして心が乱れて、わたしこそ長く生きられない心地でございます」
その言葉が終わる前にまるで灯が消えるようにすっと女院は息を引き取られました。
その瞬間源氏は自分の半身を亡くしたように空虚に崩れ落ちました。
女院ほど慈悲深く周りの者に慕われている御方はおりませんでしたので、仕えていた者たちはみな烈しくむせび泣き、世も末とばかりに乱れています。
女院の為に祈祷を奉げていた僧たちも亡き御方の心映えの優れていたことを惜しみ悲嘆に暮れて涙を流しました。
源氏は天下の内大臣です。
まだ若い帝を支えて国葬を整えなければなりません。
心が虚ろで何も感じられませんが、却って淡々と葬儀を運ぶことができるとは皮肉なかぎり。
女院をお送りした後のことなどは何も記憶に残ってはいないのです。
みな一様に喪服に身を包んだ光景をぼんやりと眺めながら、なんともわびしい春の夕暮れであった、とさめざめと思い返されるのでした。

深草の野べの桜し心あらば
    今年ばかりは墨染めに咲け
(古今和歌集:野辺に咲く桜よ、おまえにあわれを思う心があるならば今年ばかりは喪に服して墨色に咲くがいい)

 これは現実で起きたことなのだろうか?
 あの方が私を置いて逝くはずがない。
 夢であったならばどれほど嬉しいか。
 私の心もどうやら宮と一緒に死んでしまったようだ・・・。
様々な思いが湧きあがり、煩悶し、人は心に折り合いをつけるのでしょう。

国葬が終わった翌日、源氏は二条邸の御堂に籠りました。
読経をすると人払いをして、誰にも知られぬよう一日中泣き続けたのです。

胸に過るは少年の頃に見た輝くばかりの日の宮の屈託なく微笑む眩しい御姿ばかり。
はじめて抱きしめた時の宮の甘い香り。
愛ゆえに苦しんで涙を流された御姿。
愛しているといいながら拒まれ続けたことを憎んだあの日。

入日さす峰にたなびく薄雲は
    物おもふ袖に色やまがへる
(入日のさしている峰にたなびいている鈍色の薄雲は悲しんでいる私の喪服と同じ色である。きっと天もあの方の死を惜しんで喪に服しているにちがいない)

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