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紫がたり 令和源氏物語 第四百二十一話 夕霧(二十四)

 夕霧(二十四)
 
大臣の邸に着いて雲居雁の御座所に通された夕霧はなんと叱りつけようかと息巻いていたものを当の妻が不在であったことに肩透かしを喰らいました。
それにしても、この部屋の様子はまるで雲居雁の御座所のような気配がありません。
嗅ぎなれない上質な薫りが部屋中に満ちて、上等な調度がずらりと、まるでどこぞの名のある姫の在処のようで夕霧には落ち着かない空間でした。
しかし妻と共に来た四人の姫と幼い若君が遊んでいるので雲居雁の御座所には間違いないようです。
「姫たちや、さぞかし心細かっただろうね。こちらへおいで」
娘たちは父が他に新しい妻を娶ったと知っているので、大好きな父君ですが、複雑な表情を浮かべております。
「それにしても私が来たというのに雲居雁はどこに行っているのだね?」
「弘徽殿女御さまのおいでになる寝殿にいらっしゃいます」
こちらの女房は雲居雁の味方ですので味気なくさらりと答えました。
「いい年をしてみっともないとは思わないのかね。子供たちを放っておいて女御と遊んでいられるなんて。私の妻としては釣り合わないとかねてから思っておりましたが、子供も大勢あるので離縁などは考えておりませんでしたのをつまらぬ一件で拗ねられて」
側に控える乳母の君は、鼻白んで嫌味を言います。
「ほんといい年をして浮気などなさるから」
夕霧が苦い顔をしたところで雲居雁からの取次の女房がやって来ました。
「わたくしが何をしてももはやお気に召すことはありませんでしょう。せめて子供たちは末永く見守ってくださいませ、との仰せです。本日はあちらで管弦の遊びに招かれておられますので、こちらには戻られませんでしょう」
夕霧はあまりのあっさりした答えに言葉も出ませんでした。
 
結局雲居雁は戻ってくることもなく、夕霧は子供たちとその御座所に泊まることになりました。
夜が更けてもなかなか寝付けません。
それにしてもこんな時間になってもこちらに戻らぬとはどうした料簡か。
夕霧は自分がしたことをそのまま返されているだけだというのに腹がたって仕方がないのです。
ふと、静寂にかすかに響く女房の声が。
声の主は先程夕霧に嫌味を言った乳母でしょうか。
どうやら噂話をしているようで、夕霧はそちらににじり寄ると耳を傾けました。
「まぁ、あの中将さまもあちらにいらしていたというの?」
「そうなんでございますよ。いまだに雲居雁さまを忘れられぬようで」
「そう。夕霧の君はもう頼りになりませんからねぇ。前から想いをかけてくだすっていらしたあの方が新しい背になってくだされば、姫さまも心穏やかに暮らせるかしらねぇ」
「わたくしはそう思いますわ」
「姫さまが幸せになってくださるならば、それが一番ね」
夕霧はあまりのことで目の前が真っ暗になるようでした。
それまで雲居雁に想いを掛けていた者の存在など気にも留めておりませんでしたが、夕霧とのことがなければ女御として入内されてもおかしくない器量に身分です。
夕霧との結婚前には数多の貴公子達が言い寄っていたことでしょう。
 
それにしても雲居雁は本気で別れようというのか。
なんとも愚かであるよ、と夕霧は妻の態度を憎くばかり思いますが、その心を推し測ろうとはしないのです。
雲居雁はそんな夕霧を見抜いて辛く感じたのでしょう。
夕霧はそうしているうちにも女二の宮のことを考えずにはいられません。
新婚二日目に夜離れとは宮も女房たちも穏やかではなかろうと気が気ではないのです。
ああ、まこと恋などと二度とするものではない。
夕霧はそうして何度も寝返りを打ち、よくも眠れないでいるのでした。
 
夜が明けても雲居雁は夕霧と会おうとしないので、こちらも後には引けなくなりました。
「子供も大勢あるのに里に帰るなど、世間の人はあなたを子供じみていると笑うでしょう。よろしい、離縁して子供たちは私が面倒をみるとしましょう」
雲居雁はもう心を決めてしまったので、夕霧の嫌味はただの遠吠えのようであります。
「世に讃えられる継母はそうおりませんもので、姫たちにはよく気を遣って差し上げてくださいませ。あなたと共に死のうというのも、尼になろうというのもわたくしばかりが損な役回りになりますのでやめました。わたくしもどなたかわたくしだけを愛してくださる御方と再婚でもいたしますわ」
夕霧はこの取次からの皮肉が込められた言葉にまたもや絶句してしまいました。
「姫君たち、一緒にいらっしゃい。母君のように意地ばかり張るような女にはなってはいけませんよ」
このような捨て台詞を吐いて姫たちを伴うのもやはり遠吠えのようにしか聞こえません。
 
三条邸に戻った夕霧は子供たちすべてを取り戻したものの、いつもと違う邸の様子にどれほど雲居雁の存在が重要であったのかを思い知るのでした。
そこはもう温かく安らげる邸ではなく、母を恋いしがる子供たちの泣き叫ぶ殺伐とした雰囲気に溢れております。
乳母たちが子供たちをなだめすかして落ち着いても、何かが失われたような虚ろが広がるばかり。
あれほど所帯じみたのを疎ましく、宮のような女人を求めたものを、失くしてわかる家庭の温かみが今更に恋しい夕霧なのです。
本当に雲居雁が他の男に奪われるようなことになれば自分は正気でいられるのか?
夕霧は新たな懊悩に苛まれるのでした。

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