紫がたり 令和源氏物語 第二十九話 若紫(三)
若紫(三)
翌日源氏が帰り支度をしていると、左大臣の子息、頭中将と弟の左中弁が君を迎えにやってきました。
「源氏の君、すっかりよくなったようですね。この辺りでは樺桜が咲き残っているではありませんか。此花咲耶比売にでも会いに行きましょうよ」
朗らかに笑いながら頭中将は源氏を花見に誘いました。
現在行われている桜を愛でる宴「お花見」はこの平安時代の貴族達が行ったことが始まりです。
「さくら」とは「さ」=一番早い、「くら」=座(神が宿る場所)を差し、春の初めに神の宿る木とされました。
その神とは此花咲耶比売(このはなさくやひめ)、豊穣を司る女神です。
昔の人は桜の咲く頃に田植えを始め、桜を愛でてその年の豊作を祈念したのでした。
一行は庵のすぐ近くの滝のほとりに一際大きく艶やかな桜の木を見つけたので、そこで宴を催そうということになりました。
滝の水音がなんとも清々しく風雅あふれる趣に君達は酒を酌み交わし、心のままに高麗笛などを吹き鳴らします。
左中弁は自慢の美声で朗々と催馬楽(さいばら=奈良時代の民謡が平安時代に雅楽曲にアレンジされたもの)などを唄われて、普段このような貴公子達の尊い姿を拝むことのない僧侶や例の尼君などは物陰から密かに様子を伺っておりました。
やはり公達の中でももっとも優れているように見えるのは源氏の君で、僧都は源氏がどのように楽を奏でられるのか聞きたくてじっとしておられなくなり、七弦の琴を持参して御前に差し出しました。
「どうかひとつ深山の鳥などを驚かせてみては?」
源氏は僧都が姫君所望の件で自分を快く思っていないのを残念に感じていたもので、あまり気がすすみませんでしたが、ほんの一節、二節。
わずかばかりでもその素晴らしさは耳に染みて、僥倖であると感涙しました。
「このような御方がこの世におられるとは信じられません」
僧都も尼君も感嘆の溜息を漏らしました。
つくづく姫が君と釣り合う年齢でないことが悔やまれてならないのです。幼い姫にこの音色は届いたであろうか・・・。
源氏は北山に切ない心を残したまま山を下りました。
父帝が大層心配されていたので、まずその足で内裏に向かうと、帝は源氏の全快を喜ばれました。
「少し面が痩せたように見られるが、かえって男ぶりが上がったようだな」
などと軽い冗談など仰ってお笑いになります。
左大臣は大切な婿がまた調子を悪くしては、と自ら迎えにやってきて、そのまま何くれと世話をやき、付き添って自分の邸に連れ帰りました。
源氏の君は帝がおっしゃるように以前よりも艶めかしく、病みやつれても神々しくある様子に左大臣は感嘆しきりです。
これで娘の葵と仲睦まじければ・・・と思わずにはいられないのですが、葵のよそよそしい態度を見知っているだけに何も言えないのでした。
源氏が左大臣邸を訪れたのはかなり久しぶりのことです。
病に臥せっていたので仕方のないことですが、それでも半年ぶりに見た葵の上は相変わらず美しいのでした。
「私は病で苦しんでいたのですよ。何か優しい言葉でもかけてくださいよ」
と源氏が恨み言を言うと、葵の上は
「『訪(と)はぬはつらきもの』というのをご存知でしたの」
そう冷ややかに答えました。
訪れのないのが辛いことだろうというのをご存知でしたのね、という皮肉が込められた返事に言葉を失ってしまいました。
こんな時くらいは優しい言葉をかけてくれてもよいのではないか、と源氏は臍を曲げ、葵の方では、「またきついことを言ってしまった」と反省するも、他に通う所の多くある夫を目の前にするとついつい素直にはなれないのです。
このように意地を張りあってばかりの二人にいつか向きあって笑みを交わすことがあるのでしょうか。
源氏は癪に障ったので、先に眠ってしまったようなふりをしながら、かの山の美少女に想いを馳せています。
葵の上は見透かすような瞳で、
「誰か他の女性のことを考えているのだわ」
そうして源氏の背中を複雑な気持ちで眺めるのでした。
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