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紫がたり 令和源氏物語 第四百二十八話 御法(六)

 御法(六)
 
紫の上の訃報は広まり、密かに上に憧れを奉げ続けた夕霧はすぐさま六条院に駆けつけました。
あの麗しい御方がこの世を去られたというのか。
もしやいつぞやのように誤報ではないのか?
父・源氏の心中を推し量る余裕もなく、大きな衝撃が足元さえももつれさせて、あきらかに常とは違う夕霧であります。
だいそれたことを考えたことはありませんでしたが、あの野分(のわき=台風)の日に垣間見た艶やかな姿は今でもありありと思い浮かび、鈴を転がすような尊い御声は耳に残っているのです。
六条院では女房たちの嘆き悲しむ声に満ちて、只ならぬ重い空気に夕霧の心は暗く沈むのでした。
 
なんと本当にあの御方は身罷られたというのか。
せめて一目だけでも会いしたい。
 
そう願うにつけても涙が溢れる夕霧です。
 
源氏は紫の上の死を受け入れることが出来ず、流れる涙もそのままに上の顔を見つめて呆けておりました。
「大殿さま、夕霧さまがお越しになりました」
女房の声も遠くに聞こえて、自分がどこにいるのかもわからぬように思われます。
まるで黒い霧が視界も心も閉ざしてゆくようで、そこにはただ無明の闇が横たわるばかりなのです。
「父上、しっかりなさってください。紫の上さまをお送りせねばなりません」
夕霧の声でふいに現実に引き戻された源氏の耳には女たちの悲痛な嘆きしか聞こえてきません。
 
おお、これは夢ではなかったよ。
この人は逝ってしまわれた。
 
「夕霧よ、この人の最後の願いは出家であった。今からでも髪を下させようか。たとい一日の受戒でも功徳は得られよう」
「もうお亡くなりであればその甲斐はございませんでしょう。手厚く御供養されることこそ紫の上さまの御為かと思われます。何より送ってさしあげねば」
「ああ、そうだな」
そうは言いつつも、源氏は紫の上をいつまでも側から離したくはないのです。
夕霧はどうにかして最後に一目憧れの御方にお会いしたかったので、父に何か言う風に几帳ににじり寄りました。
「女房たち、しばしお静かに願いたい」
夜明けは近いものの、薄闇の仄かな灯りの元で憧れの君は静かに眠っておられました。
口元にはうっすらと笑みを浮かべ、まるで夢を見ているかのように安らかなお顔をされています。
長いまつげに愛らしい口元、白く透き通った肌はこれまで見たこともないほどに麗しく、髪もふさふさと豊かで艶々としているのでした。
世に類まれなる美しさというものはなまじ化粧などをせぬほうが際立つのだ、と夕霧はこのあまりにも美しい姿に魅入られました。
 
この御方が笑う姿はどんな花よりもあでやかであろう。
ちょっとした眼差しでさえも魅力的であったに違いない。
自分の魂がそのまま抜け出てこの骸に引き込まれるようであるよ。
 
夕霧は至上の美を惜しみました。
「生きている姿そのままであるのに、どうしてこの人を送ることなどできようか」
もはや源氏は夕霧が見ているのをおして隠そうとはしませんでした。

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