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令和源氏物語 宇治の恋華 第二十三話

 第二十三話 橋姫(十一)
 
薫はひとときも早く八の宮さまにお会いしたいと願いましたが、近頃その真面目な勤めぶりから益々声望は高まり、お主上(おかみ=帝)にも頼りにされるので、宰相として多忙な日々を送るようになっておりました。
師との語らいが何よりもの救いであるのに思うままにならずもう三月も宮さまとお会いできないでいるのです。
加えて秋は宮中での行事も多く、今年はお主上の行幸などもありましたので、中秋の名月の宴を一区切りとしてようやく落ち着くことができました。
そうなるともう居ても経ってもいられずに、薫は狩衣を纏い、馬に跨って数少ない供と微行らしく宇治へと赴きました。
十六夜の月を眺めながら、草を分けて露がしとどに裾を濡らし重くしますが、宮に会えると心弾んで心は軽くなる君なのです。
薫は普段忍び歩きなどしないので、こうした月を供にしたそぞろの道行も趣深いものだと感じました。
 
 山おろしに堪へぬ木の葉の露よりも
      あやなくもろきわが涙かな
(山おろしに堪えきれない木の葉の露よりも涙がもろく落ちるのはどうしたわけであるのだろう)
 
そろそろ山荘が見えてこようというところで微かな楽の音が聞こえるのを宮の手であろうかと懐かしく思う薫ですが、近づくごとにその音色が琵琶であり、奏者が別の人であることに気付きました。
「このような山里に名人がいらっしゃるとは」
薫は馬を下りてその場に佇んでその音色に聞き入りました。
琵琶の掻き返す音に斬新さが見られ、添うように響く筝の琴(十三弦)も華やかに艶めかしく響き渡るのが澄んだ夜空に吸い込まれてゆくようです。
さやさやとそよぐ薄も楽の音に添うているようで、なんとも情趣に溢れる宵でしょうか。
「殿、このような山里で聞く琵琶や筝もよいものですね」
側近の惟成が薫の傍らで感嘆の声を上げました。
「うむ、おそらく姫君たちであろう。大きな声をあげるなよ。慎み深い方々だから演奏をやめてしまわれるかもしれぬ。まだまだ聞いていたいものだ」
薫も懐に忍ばせた笛を合わせたいとうずうずしましたが、じっと我慢です。
そうして一行が息を潜めるようにしていても、薫の芳香でその訪れが知られてしまうのが辛いところでしょう。
姫君たちは気付かずに演奏を続けておりましたが、宿直所にいた下男が恐縮した体で出てきました。
「これは中将さま、宮さまは生憎念仏会の勤行で山寺にお籠りなのです。人を遣ってお越しの由を知らせしましょう」
「お勤めなさっているものを邪魔するのは申し訳ない。それよりこの演奏は姫君たちですね。噂では聞いておりましたが見事なものです」
「はい。姫君たちは奥ゆかしい方々ですので、客人のある時などはけしてその存在を知られぬよう慎んでいられますが、常日頃はこうして弾いていらっしゃるのですよ」
「どうにかお側で知られぬように聞けるような場所はありませんか」
「とっておきの場所がございますとも」
薫は透垣(すいがい=竹や板を少し間をあけて作った垣)を巡らした庭先に案内されました。
向こうからはこちらの様子は窺えませんが、こちらからは竹の隙間から姫君たちの座している簀子を見ることができるのです。
薫はこの下男は時折こうして姫君たちを覗き見ているのかと訝しみました。
「いやいや、誤解なさらないでくださいませ。こう霧が深くては姫君たちの御姿はそうそう拝めませんよ」
慌てて弁解する男になかば呆れる薫君ですが、大それたことはしそうにない実直そうな男です。
狭霧がうっすらと立ち込める風情に月を眺めようと姫君たちも御簾を巻き上げて端近までいざり出ていたようです。
うっすらと雲が掛かった月の光でぼんやりとしか見えませんでしたが、柱の陰に琵琶を前にする人があり、筝の琴の傍らには物に寄りかかりながら今一人の姫君がいらっしゃるようです。
ふとその時に雲間が切れて月光が急に辺りを明るく照らしました。
琵琶の撥を弄んでいた姫(中君)は嬉しそうに声を上げました。
「お姉さま、昔の人は扇で月を招き返したと言いますが、わたくしはこの撥で月を招くことが出来ましたわよ」
「入日を招き返す撥があるというのは聞いたことがあるけれど、あなたは面白いことを考えつくものね」
薫は姫君たちを見ました。
妹姫は可憐で匂うばかりの乙女らしい風情であり、姉姫はしっとりと落ち着いたこちらも美しい姫です。
「でもお姉さま、撥を納める穴を隠月と言いますでしょ。あながちかけ離れた発想ではないわ」
他愛もないことを楽しげに笑い合う姿はまるで物語絵の天女のようです。
薫は想像していた以上に美しい姫君たちを目の当たりにして頭がぼうっと、霧がかかるような心地で身じろぎもできないのでした。

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