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令和源氏物語 宇治の恋華 第二十四話

 第二十四話 橋姫(十二)
 
月がまた雲間に隠れて、再び明るく差し込まぬものかと薫が息を潜めていたところ、
「お客さまがお越しでございます」
と知らせる者があり、まだ見足りぬと残念に思うものの、御簾を下して皆奥へ下がってしまいました。
衣擦れもさせず、何事も無かったかのごとくしなやかに振る舞われるのが小憎らしくも感じられます。
それにしてもてっきり尼のような姫君たちかと思いきや、このような山里に麗しい人達が隠れているとは、匂宮が言うようなことが実際にあるものだ、と薫は驚いておりました。
この時薫は美しい姫たちに魅せられた自身の心にまだ気付いておりませんでした。
いずれ仏門に帰依する身なればほだしは必要なしという頭ごなしの信念が女人と向き合うことをどうにも避けるよう仕向けるのです。
しかしこの世に男と女がいる限り、愛と言うものはつきまとうもので、心を殺してどうにかなるようであれば迷いや争いなどは生じないのです。
また、男と女がある意味を避けて通るようでは真の悟りには辿り着かぬというものでしょう。
知らず気持ちが昂ぶる己を解せずに戸惑うばかりの薫ですが、このままここを立ち去るということもできないでいるのです。
薫は宿直の男の処へ行くと、姫君たちへの取次を頼みました。
「私が来たのがばれてしまったようだね。このまま帰るのも気まり悪いのでせめて姫君たちにご挨拶をしたいのだが」
下男がその旨を姫君たちに伝えますと邸は俄かに慌ただしくなりました。
これまではかばってくれる父の居ぬ間に姫君たちが客人を迎えるということなどはなかったことなのです。
姉の大君は父に成り代わって貴人をお相手しなければ、と気を張るばかりでよもや覗かれていたとは気付かぬのです。
女房たちも田舎に埋もれた者ばかりで世慣れた対応などできるはずもありません。
薫君の尊いご様子に狼狽えて敷物ひとつ出すのにもたどたどしく、くつろいでいただこうという心遣いさえもできないのでした。
薫は濡れそぼった装束をもてあまして京へ迎えの車を呼びに行かせているのです。
けして婀娜めいた心持ちで山荘にとどまろうというのではありません。
そのように自分に言い聞かせて、姫君たちのいらっしゃる御座所まで出向き、縁側に畏まって座しました。
「不躾とお思いでしょうか。しかし宇治への旅路で湿った衣を変えさせていただくしばしの間でございます。羽を休める小鳥を追い出すような真似はなさらないでくださいませ。けして下心などはありません。それはこの三年の間ここに通ってきた私をご存知であれば尚のことと思われますが」
御簾の内からは何の返事も無いのをただじっとこらえる薫君の御姿を、京中の女人でさえ溜息をつかずにはいられぬのに、こうした山里で都人の姿も珍しく眩しく感じる女房たちには機転を利かせて返す才覚もないのです。
たまりかねた大君が言葉を返しました。
「鄙びたところにてなんとも場馴れせぬわたくしたちには如何お答えして良いのやら、お察しくださいまし」
この嗜み深い御声は姉君の大君であるな、と薫はその風情ある御姿を思い浮べました。
「いいえ、その聡明なお言葉。さすが宮さまの姫君であると感服いたしました。私はどうにも人見知りするようなところがあり、女人とお話をするのも慣れておらぬせいか口下手なのです。もっと早くにご挨拶するべきでしたが、躊躇われているうちにここに通うも三年となり、今更ながらでございますが、これから親しく打ち解けてくださればこれ以上ありがたいことはありません」
薫はいつにも増して熱を帯びたように訴える己の姿に驚いておりました。
「わたくしどもは都から隠遁したようなつまらない存在でございます。身に余るお言葉ですわ」
大君は慎ましく応えられましたが、たしかにこれまで挨拶もなかった薫君がこのように熱心におっしゃるのはもしや先の楽の音をお聞きになったのではあるまいかと恥ずかしくなりました。
「実は風の音に乗り、合奏をほんの少しばかり聞かせていただきました」
「まぁ、お恥ずかしゅうございます。拙い手ですのに」
やはり、と大君は狼狽えました。
「なんの妙手がここにいらしたと感動するばかりです。やはり宮さまの尊い血を継がれておりますね。感服致しました」
精悍で美しい佇まいにまっすぐ差しこむような強い瞳、そして噂通りの薫君の芳香に、大君はのぼせるように顔を赤らめました。

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