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紫がたり 令和源氏物語 第三百九十六話 鈴虫(五)

 鈴虫(五)
 
ちょうど盃が二巡りほどした頃に冷泉院から御消息がありました。
院は御所での月見の宴が中止になったのを残念に思召され、上達部を呼び寄せようとしたところ、みなが六条院に集っていることを知られたのです。
 
雲の上をかけ離れたるすみかにも
      もの忘れせぬ秋の夜の月
(帝位を下りた私の住処にも名月は忘るることなく照り映えておりますよ。どうぞ一緒に愛でませんか)
 
冷泉院は退位されてから静かに余生を過ごされておりますが、管弦の遊びなどを好まれる風流人なので、このような名月を放っておかれるはずもありません。
源氏は院からの申し出に恐縮しました。
「これはうっかりしておりましたな。私も年をとって腰が重たく、なかなか参上もしなかったのをあちらからお召にあずかるとは畏れ多い」
 
月影はおなじ雲居に見えながら
     わが宿からの秋ぞかはれる
(御身のお栄えはお変わりなく、私の方がいろいろと変化がありまして無沙汰をして申し訳ありません)
 
院に宛てた返事を側仕えの者に託し、遣いの者には盃を勧めました。
「使者の君、この上はみなでにぎにぎしく冷泉院をお訪ねしようと思うが、如何?」
「それはとても驚かれ、何より喜ばれることでしょう」
源氏も重い身分になってしまったので公式な訪問であれば威儀を正して出掛けなければなりませんが、ごく内輪のようなこの宴、気軽に出かけて院を驚かしてさしあげようという趣向です。そうして俄かに参上の支度を始めました。
 
源氏には夕霧、明石の女御と子はありますが、やはり公にはできぬがこの冷泉院がひとしお愛しく感じていられます。
冷泉院も年を重ねるごとに益々源氏と生き写しのように風采が加わるのを父としては誇らしく、御位を下りられてからの身の処し方も実に奥ゆかしいのが立派になられたと密かに涙を拭う君なのです。
 
冷泉院は源氏に遣いを送ったものの、そうそう参上というわけにも参るまい、とどのような返事が戻ってくるかを楽しみにしておられました。
月がやや高く昇り、夜更けの風情を楽しまれていると、遠くから微かな笛の音が風に運ばれて聞こえてきました。
ものものしい前駆もないようなので、院は気の利いた上達部をこちらへよこしてくれたのだな、とその音色を楽しまれましたが、まさか源氏が直々に参上したのにはたいそう驚き、とても喜ばれました。
源氏は六条院に集った上達部もすべて引き連れて、車を何十輌も連ねてやって来たのです。
「源氏の院は相変わらず悪戯好きな御方ですね」
「せっかくのお誘いを私が断るはずもありません。それよりも長らく参上致しませんでしたのをお詫びしなければ」
「そう思召すならばまずは盃を干していただきましょう」
冷泉院はにっこりと微笑まれると源氏に盃を取らせました。
 
ごく内輪の“鈴虫の宴”は思わぬ大きな“月見の宴”となりましたが、雅を愛する平安の貴族達には、流れに任せるもまた一興、酒と楽と和歌を友として夜が明けるまで宴は続いたのでした。

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