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紫がたり 令和源氏物語 第三百六十三話 若菜・下(二十九)

 若菜・下(二十九)
 
翌朝源氏は陽が高くなる前に二条院へ戻ろうとして、手持ちの蝙蝠(かわほり=紙の扇子)をどこへ置いたか探しておりました。
すでに気温は上がり始めて檜扇の温い風ではどうにも過ごせそうにありません。
さては昼の御座所に置き忘れたかと何気なくやってきて、「あった、あった」とふと見ると、御茵の下から浅緑の鳥の子紙が覗くのを見つけました。
どうしてこうも間が悪いのでしょう。
源氏は悪戯心から誰の恋文か見てやろう、と手紙を引き出しました。
その内容を見た源氏の驚きと言ったら・・・。
それは柏木から宮へ宛てた例の恋文なのでした。
すぐには信じられず、女房のうちに柏木の手跡に似たものがいるのでは、と思い直すもただの欺瞞であります。
薄く濃く流麗なこの手跡はまごうことなき名手といわれる柏木のもの。
そして内容は宮を恋慕って積年の想いが実ったものの、御身は源氏の妻である、と苦しい想いが一面いっぱいに書き綴ってあるのです。
余所から宮の不義を囁かれればそのようなことはあるはずがない、ときっぱり否定する源氏ですが、自ら動かぬ証拠を掴んでしまったのがまたなんとも情けなく感じられるのです。
とりもなおさずこの文を見つけたのが自分で良かったと思われるのは、宮の不名誉が世に流れ出れば兄である朱雀院がどれほど御心を痛められるであろうかという気の毒さゆえです。
源氏はその手紙を懐にしまい、無言のままに六条院を後にしました。
 
女三の宮の女房たちは源氏がそそくさと六条院を発ったのを紫の上憎しと陰口をたたいておりましたが、一人小侍従だけは源氏が御座所で手にしていた手紙を見て顔色を失っているのでした。
女三の宮はいまだ御寝所でお休みになっておりましたが、早く事の次第を確認せねばと小侍従は生きた心地もしません。
「宮さま、宮さま。あの手紙はどうなさいました?」
不躾にも宮を揺すり起こしました。
「小侍従、どうしたというの?」
「昨日のお手紙はどこへ仕舞われたのですか?」
状況も把握できずに目を瞬かせる御姿はことさらに幼く思われます。
「みなが来たので茵の下に隠して、そのままだわ」
「なんと不用意なことをなさるのです。見て参りますわ」
小侍従はそのまま昼の御座所へと急ぎました。
これはもしやとんでもないことに、と考えるだけでも全身から血が引いてゆくような小侍従です。
しかしいくら御茵の下を探しても見つかるはずがありません。
「宮さま、大変ですわ。あのお文が殿の手に・・・」
「なんてこと。殿に叱られてしまうわ」
あまりの出来事に宮は真っ青になってぶるぶると震え、涙を浮かべられますが、このような状況に陥っても叱られることが恐ろしいとは、これから先々のことを考えられない至らなさよ。
「そもそも宮さまが柏木に垣間見られたりして嗜みがないからこのようなことになったのですよ。今度は懸想文をそのまま放っておくなんてどうかしてます。わたくしは何も悪くありませんからね」
小侍従は乳姉妹であるし、宮を見下しているようなところがあるのでこうしたことをずけずけと言ってのけるのです。
宮はただおろおろと泣くばかり。
「わたくしはどうしたらよいの?叱られるのかしら?」
この期に及んで。
叱られるくらいで済めば、これほど楽なことはないでしょう。
宮は事実上源氏の子ではない子を孕んでいるのです。
源氏の院の力をもってすれば、その子の存在など闇に葬ることも造作もないこと。表向きに死産とすれば、はなからなかったものと同じことなのです。もし院がそのような非情な決断をされたならば、女三の宮には厳しい現実が待ち受けていることでしょう。
「殿は公に宮さまの御後見ですので、軽々しく離縁ということはないでしょうから知らぬふりを決め込むしかありませんわ」
小侍従はそう宮を励ましますが、宮の御子が源氏の子ではないと知れた今となっては宮のこれからが辛いものであるというのは目に見えております。
ただただ大変なことになった、とおろおろと暗く沈むのでした。

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