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紫がたり 令和源氏物語 第三百六十四話 若菜・下(三十)

 若菜・下(三十)
 
二条院に戻った源氏はまず紫の上が無事であることを確認してほっと胸を撫で下ろしました。
「お帰りなさい、あなた。宮さまのお加減はいかがでした?」
「なに病気ではないのだから、元気にしておられたよ。それよりあなたは今日も起き上がれるようだね。顔色もよいし、よかった」
紫の上はふと何かあったのかという違和感を持ちましたが、それはやはり源氏が宮さまを気遣っているのではと考えました。
「ねぇ、あなたはもう六条院に戻られた方がよいのではないかしら?身重でいらっしゃる宮さまは心細いと思いますわ。わたくしはもう少しこちらでのんびりしてから戻りますので。お先に帰られたほうが」
「病気が良くなった途端に人の心配かい?今の私にはあなたが一番大切なのだよ。朱雀院や今上に恨まれてもこれだけは譲れない。六条院に戻る時はあなたと一緒だよ」
源氏は今心底悔やんでおります。
女三の宮を娶ったことはこの上を傷つけただけの、その身分にも値しない宮であったよ、と。
 
源氏は一人になるとあの柏木の手紙を取り出しました。
あんな風に迂闊に手紙を放っておいて他の女房にでも見つかったらどうなっていたことであろう?
結婚して七、八年も経つのに今頃懐妊とはおかしなものと思っていたものの、なるほどそういうことであったか、と合点がいくのでした。
しかし柏木の手紙も配慮に欠けるものとしか思われません。
手紙のやりとりで何事もなされていたこの時代ではもちろん思わぬ相手に手紙が届けられてしまったり、遣いの者が紛失したりというのはよくあることでした。
ですからこうした忍ぶ文にはそれと事情がわからぬように仄めかしたり、相手の名前などを書くことは控えるべきです。
この手紙には宮の名前がはっきりと書かれてあり、二人が逢ったこと、それから逢えぬ苦しみなどが連綿と書き連ねてあるのです。
第三者の目から見ればなかなか読み応えのあるものですが、あの宮と柏木を思い浮べるだけで胸のあたりがムカムカと不快になる源氏の君です。
宮の名さえなければ女房の誰かに宛てたものかと知らぬふりもできようものをこうあからさまではなんとも、と深い溜息をつきました。
それにしてもこれから宮をどのように扱えばよいのか、これが源氏には頭の痛い問題です。
ただでさえあまりの幼さにがっかりして愛も薄い宮であるのに他の男に靡いたとあっては、いやもう見たくもないというのが本音なのです。
これが二品の宮であるとは笑止千万。
源氏は柏木ごときに引けをとったのも面白くもなく、この手紙のありようからしても柏木も存外賢いとは思われぬので、あの愚かな宮とはお似合いであるよと嘲笑を禁じ得ないのでした。
しかしこのまま何食わぬ顔をして形ばかりは正妻のように扱っておけばよいという問題ではありません。
宮は源氏以外の男の子をその身に宿しているのです。
そのような子をどうして愛せましょうか。
苦々しい思いが込み上げて、目に宿る暗い光が心の奥深くに澱となって積もってゆくのですが、源氏はふと思いました。
このような密事というのは道を外れたことであり、そうしたものが露見しないことはないのです。
過去の源氏と藤壺の女院とのことをもしや亡き父院はご存知であったのではあるまいか、と。
父院はあの須磨へ流された折、死して後も源氏を救おうと天駆けて兄・朱雀帝を戒めに現われたのです。その愛の深さを今となって身に沁みて感じる君ですが、自分はどうにもそのような境地にはなれそうにない、と己の不徳を恥じるのでした。
女三の宮の不義はそれまでの己の所業や考えをも覆すほどに源氏を大きく打ちのめしました。
人妻でも愛があれば奪ってもよいという傲慢は空蝉の夫には申し訳ないことをしたものだと悔やみ、朧月夜の尚侍が言い寄れば情にほだされるところを可愛く思っていたものがなんともだらしなく嫌悪されたりと己の放埓な遍歴が復讐しているかの如く感じられるのです。
今回の宮の懐妊もとどのつまりはそうしたものなのだろうかと思い知った次第で、益々紫の上の在り様が尊く思われて、上への愛情が募る君なのでした。

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