紫がたり 令和源氏物語 第三百六十五話 若菜・下(三十一)
若菜・下(三十一)
源氏は六条院のことや女三の宮の話を紫の上の前で一切しなくなりました。
そしてまるでそのような人など最初から居なかったかのように二条院で紫の上に添うております。
宮は源氏がめっきり来られなくなったのを自分の顔を見たくないからであろうと諦めてしぼんでおられるのがお気の毒なことで、叱られることを何より恐れていらっしゃいましたが、無視され続けることの苦しみというものを初めて知ったのでした。
それでも源氏は安産祈願の僧などを遣わしたりして、以前と変わらぬ体を装い、悪阻で苦しんでいると聞けば昼の間にご機嫌伺いにと足を向けますが、もう共に夜を過ごすということはないのです。
以前の源氏の言葉には宮を思い遣る気持ちが滲み出ていたものですが、言葉遣いも改まり尊い姫宮が恙なく過ごされますよう、と慇懃に隔てられるのが宮にとっては何よりも寂しく、拠り所を失ったように頼りなく感じられます。
優しく引き寄せられて安心していた頃とは違い、まるで針の筵に座らされているような苦痛を感じておられるのでした。
小侍従は一時はどうなるかと思ったものの、源氏が事を荒立てずに宮を放逐するようなこともなかったので、心底安堵しました。金輪際柏木に関わるのはご免だと肝に命じましたが、当の柏木は源氏がまた六条院を不在にしていることから細々と手紙をよこすのです。
柏木は宮が懐妊されたという噂を聞いて、天にも昇るほど嬉しく感じておりました。やはり自分と宮は前世から結ばれた縁であった、と宮に逢いたくて仕方がないのでしょう。
小侍従はもう柏木とは関わらないと決めたので、会って今回のことを告げようと決めました。この女房はあくまでも利己的で柏木の為を思い遣り知らせてやろうという気持ちは微塵もないようです。
「小侍従、やっと来てくれたか。今宵は宮さまはどうしておられる?」
「どうにもこうにも身重で辛そうですのでお気の毒ですわ」
「そうか、では行って慰めてさしあげよう」
そのように楽観的な柏木を目の当たりにして小侍従は自分の立場も危ういものを、とそう考えるにつけてもこの男が憎らしくて、先ほどまではこの苦境をどううまく伝えようかと悩んでいたことも霧散してつい口調が強くなってしまいます。
「もう二度と宮さまとはお逢いできませんわよ。あなたの手紙を源氏の院がご覧になってしまわれたのですもの。宮の御子の父が誰であるかも察せられたことでしょう」
小侍従の突然の言葉に柏木は絶句しました。
どうした経緯でそのような仕儀に至ったかを聞いた柏木は全身から血が引くように青ざめました。
「源氏の院は体面を慮って公にはされないでしょうけど、もう二度と宮にお逢いしようなどとは考えぬことです。よろしいですわね」
小侍従はそのまま柏木に背を向けました。
柏木は先刻までの我が子誕生の慶びからうって変わって地獄に突き落とされたような気分で膝から崩れ落ちるほどです。
思えば源氏には昔から可愛がってもらい、何かにつけても目をかけてもらいました。
改めてその人を裏切った罪の重さと事が露見した羞恥で消え入りたいと願うばかり。この先どうして生きてゆけばよいのやらと目の前が真っ暗になりました。
冷静になってみればなんと大それたことをしてしまったと思い知らされますが、時間が巻き戻ることはないのです。
柏木は源氏の勘気を逃れる術はないものかと懸命に思考を始めました。
女三の宮を連れて逃げようなどと、現実的に不可能なことまで、よくぞ恋に浮かれてのぼせ上がっていたものだ。
そもそもどうしてあの春の夕暮れに宮の御姿を垣間見ることができたのか。
手紙の見つけられ方といい、自ずと宮の粗忽さに気付かれようものを。
夕霧も宮を見たようだったが、彼はそんな宮の振る舞いを非難していた。
どうしてあの時夕霧の言葉を聞き入れなんだか。
柏木が烈しく悔やんで宮の足りない点をあげつらったところで、時すでに遅しという処でしょう。しかしやはり宮の御姿を思い浮かべるともう一度逢いたいと願わずにはいられないのでした。
それからの柏木は一層邸に引き籠るようになりました。
誰もかれもその視線が自分を非難しているように思われて、人に会うことに恐怖を感じ、内裏への出仕も一切できなくなったのです。
快活さもなくなり、魅力的な風貌は輝きを失いました。
これが恋に身を焼いた男の末路かと思うとなんと哀れでありましょうか。
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