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紫がたり 令和源氏物語 第二百七十話 真木柱(一)

 真木柱(一)
 
髭黒の右大将は弁のおもとの所に足繁く通い、せつない恋心を訴え続けておりました。
九月に入り、翌月には玉鬘姫は宮中へ上がってしまわれるので、一刻の猶予もないことと、なんとか姫を妻にしたくて弁のおもとを口説いているのです。
弁のおもととしても右大将が玉鬘姫の夫となられたほうが良いのではないかと感じるほど、この御仁に肩入れしております。
右大将の結婚生活というのはあまり幸せなものではありませんでした。
右大将の北の方は式部卿宮の姫で病を患っているという風に世間では言われておりますが、それはただの病ではありません。
物の怪に憑かれたように時折暴れて手に負えなくなるのです。
暴れる時には大男の右大将でさえ取り押さえるのが難儀なもので、北の方の細い体のどこにそんな力があるのかと思われるほどなのです。
髪を振り乱し、目を血走らせながら夫を罵るその姿はまさに物の怪の仕業としか考えられません。
普通ならばそのまま実家に返して離婚してしまうところですが、夫婦の間には三人の子もあり、長年連れ添った妻を右大将はどうしても捨てることができないのです。
弁のおもとはそんな右大将の誠実で優しい男らしさを好もしく感じているのでした。
「弁よ、私が幸せになりたいと願うのは分不相応であろうか」
右大将は目に涙を溜めながら訴えます。
「そんなことありませんわ。大将ほどの立派な行いをなさってきた御方ほど幸せになる権利があるというものですもの」
「私は今まで自分から何かを欲するということがなく、慎ましく暮らしてきたつもりだった。味気ない人生であっという間に中年になってしまったよ。それが初めてあの御方を得たいと年甲斐もなく心が熱くなったのだ。こんな中年男を見苦しいと思うかね?」
「いいえ。わたしもお力になりたいとは思うのですが、源氏の大臣に背くのが恐ろしくて・・・」
弁のおもとは勘が鋭く、源氏の玉鬘に対する執着を薄々感じていたのでした。それゆえにもしも源氏の意に添わぬことを引き起こした後の事を考えると背筋が冷たくなります。
「弁よ、その点は大丈夫だ。源氏の大臣の胸中では私は姫の夫候補に入っているはずだ。そうでなければあれほど政治力のある方ゆえ排除されていただろう。私の妻が紫の上さまの姉になるので、渋っておられるだけのことよ。私は東宮の叔父にあたりいずれ政権の中枢に必ず喰い込んでいく。大臣のお気持ちとしては政事に携われぬ親王よりも私と縁を結んだ方が権勢をさらに盤石にするという計算も働こう。何より実のお父上である内大臣が快諾してくださっておる」
右大将は噛んで言い含めるようにして、弁の不安を取り除きます。
若い女房にはまるであずかり知らない政治の舞台裏を垣間見て、さもあらんと心が大きく揺らぎました。
「玉鬘姫にお会いして、御心を伝えたいのですね」
「うむ。真心をもって訴えれば姫の心も解かれようと思うのだ。弁、頼む」
右大将という身分高い方に額づかれ、弁のおもともこの御方の力になりたいと勇気を奮い起こしました
「わかりました。なんとかしてみましょう」
弁のおもとは玉鬘の憂いを帯びた横顔を思い出しました。
源氏に懸想され、宮仕えも気のりがしない様子だったので、もしやこの右大将の真心に触れれば気持ちも変わるのではないかと思ったのです。
そしてこの方の妻になる方が姫にとっては後々幸せになるのではないかと考えるようになりました。
弁のおもとこそ、この右大将に愛されたいと心密かに願っているのですが、何分身分が違うことなので、せめて玉鬘姫が幸せになればこれほど嬉しいことはないのだ、そう自身に言い聞かせるのでした。

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