見出し画像

紫がたり 令和源氏物語 第八十三話 賢木(十二)

 賢木(十二)

雲林院から滞在が長引く旨を伝える手紙を受け取った紫の上はぼんやりと考えておりました。
幼いうちに源氏の妻となった紫の上はもちろん他の殿方を知りません。
しかし、思い立ったように雲林院へ参詣に向かった夫は明らかに様子が常と違っておりました。
普段念入りにお洒落に気を遣う君が、たいそう傷心して、髪も直さずにほつれたままに自堕落で、文をしたためるか悩んで深い溜息をついては、紙を投げ出して散らかす始末。
起きているのか、眠っているのか、塞ぎこんだように夜具を引き被り、世を厭うほどに自暴自棄で、中宮様が参内されるというのに供奉もされませんでした。
じっと源氏を見守る紫の上はいつしか夫の心には昔からずっと想う御方がおられるのだと気付いておりました。
そしてその方はけして添い遂げられぬ相手なのであろうと。
私を“ゆかりの君”と言い、“紫”の上と呼ぶけれど、私は一体誰の身代わりなのであろうか。
もしもその方と想いが通じれば私は不要になってしまうのか・・・。
二条邸から出ることのない紫の上を世間知らずのように源氏は考えているようですが、通う女人の数多いることは世間から漏れ聞こえてくる噂などで自然とわかるものです。
日毎女性としての感性が磨かれていく紫の上は持ち前の明晰さから、源氏のあの様子はまさに恋に破れて傷心したものだと敏感に感じ取っているのでした。
女とは男に縋って生きるしかなく、己の人生も選べない哀れなものだ。
そう紫の上は噛みしめながら、心には虚ろが広がっていくように思われました。


源氏は十日ばかりの滞在で二条邸に戻りました。
紫の上が物想いを重ねて悩んでいたことなど露とも知らず、愁いを含んだ様子を、しばらく見ない間にまた大人っぽくなった、などとその美しさに感嘆の溜息を漏らされるのが勝手な男心というものか。
「私が留守にしていたのがそんなに寂しかったですか?それならば昔みたいに出迎えに抱き着いてくれてもよかったのに」
「まぁ、もう子供ではありませんのよ」
「そうだね。すっかりしとやかな淑女におなりになった。勤行のさなかに後の功徳を考えて出家してしまおうかと考えましたが、やはりあなた想うとそのようなことできそうにありません」
「どこにもいらっしゃらないでね」
そう紫の上は寂しそうに笑いましたが、それは心も側に居てほしいという願いから。
いじらしい姿に甘えているのだと、感じた源氏は、その深い心ざまを察することはできないのです。
「もちろんだよ。そうだ、土産があるのだった」
源氏は惟光を側に呼びました。
その手には鮮やかに色付いた紅葉の一枝が携えられておりました。
「山の冷気はこれほどまでに木々を染め上げるのだ。美しいだろう?」
「ほんとに。これほど見事な赤は都ではお目に掛かれませんわね」
ほうっ、と素直に感嘆する様も愛らしく、源氏は若妻を抱きしめずにはいられないのです。
やはりこの人を悲しませることはできない、と心に固く刻んだのでした。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?