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紫がたり 令和源氏物語 第七十九話 賢木(八)

 賢木(八)

源氏は紫の上を得てから、弘徽殿大后の目を憚ることもあり、忍び歩きを控えて二条邸で気ままな日々を過ごしております。
しかし藤壺の中宮に対する想いが無くなったかといえば、それはまた別の話なのです。
院が亡くなられたことで、むしろ物想いが増しているというのが本当のところでしょうか。
院は中宮と春宮の後見に源氏を指名しました。
これからは堂々と御二方にお会いできると思うと、嬉しくもあり、中宮ももう少し自分を気にかけてくれてもよいものを、とよそよそしくつれない態度をとられるのが気に入らないのです。
源氏は宮恋しさゆえに今の状況というものを冷静に判断できないのでしょう。
未亡人となられた宮を公私ともにお世話するということがあってもよいのではないか、とさえ都合よく思いこむほどに周りが見えていないのです。

宮はそのような源氏の態度を敏感に感じ取り、御心を悩ませておりました。
春宮は源氏との不義でできた子です。
その事実は春宮の為にはどうしても隠し通さなければならない秘事であり、もしも源氏とまた過ちを犯し、それが露見するようなことがあれば、弘徽殿大后はそれを見逃さないでしょう。
嘘か真かはどうであれ、春宮を源氏の子と世に吹聴して排斥するようなことをためらいもなくやってのける女人です。
宮は母として春宮を守る御心をしっかりと固めておられます。
とはいえ、中宮という名ばかりの頼りない女の身には限度があり、源氏の庇護が必要なことを痛感します。
せめて源氏の愛執が少しでも薄れないものか、と密かに祈祷などもさせておりますが、効果のほどは如何ばかりか・・・。

ある時そのような宮の御心を踏みにじるような思いもよらないことが起こりました。
源氏がどこから入り込んだのか、またもや三条邸の宮の寝所に忍んできたのです。
宮はその軽々しい振る舞いに呆れました。
しかし源氏は自分の宮を慕う気持ちばかりを一方的に押し付けてくるので、宮は煩悶し、そのうちに胸が苦しくなって倒れてしまわれました。
御帳台の側に控えていた王命婦と弁の君は、自分達が源氏を手引きしたものの、このように宮が煩ってのぼせておしまいになるとは思わず、慌てて宮を介抱しました。
源氏は、何故宮は私の気持ちをわかってくださらないのであろう、あれほど愛し合った仲ではないか、と恨めしく、茫然自失です。
宮のご様子がおかしいと他の女房が騒いで、兄上の兵部卿宮が参上なさるご気配があるので、王命婦達は急いで源氏を塗籠(ぬりごめ=納戸のような小部屋)に隠しました。

兵部卿宮が僧侶などを呼び、加持祈祷などをさせているうちに陽が高く昇る頃にはご容体も落ち着いてこられたので、宮は昼の御座所へと移られました。
よもや源氏の君がいまだ塗籠のうちに潜んでいるとは夢にもご存知ありません。
兵部卿宮もひと安心されてご自分の居間に戻られたのは、辺りが夕暮れに染まり始めた頃でした。
源氏は密かに塗籠を出て、宮の御座所に入り、屏風の隙間から宮を覗き見ました。
物思いに耽るようにうつむく姿は美しく、豊かな髪がこぼれ落ちるさまも、長く上品なまつ毛も紫の上と瓜二つです。
源氏はたまりかねて宮の裳の裾をそっと引き寄せました。
その僅かな動作に源氏の薫衣香(くのえこう=衣に焚き染められた香)がさっと薫り、宮は再び青ざめました。
衣を脱いで源氏から逃れようとしたものの、源氏の手には宮の髪がしっかりと握られており、身動きがとれません。
「宮にここまで疎まれるとは、何もかも捨て去ることができる身ならば迷わずあなたの望むとおりに死んでしまいましょう。しかしこの妄執は来世までもあなたのお側を離れますまい」
まるで蜘蛛に絡め捕られた蝶のようで、これも前世からの悪縁なのか、と辛く、宮はまた涙をこぼされました。

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