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令和源氏物語 宇治の恋華 第十五話

 第十五話 橋姫(三)
 
それはある宵のこと。
失意の日々を送る夫に心を残した北の方は夢に姿を映しました。
夢の中での宮は庭の蓮を眺めては溜息をついて、また涙を流しておられました。
隣に添うようにすうっと在りし日の姿そのままの妻が現われて、宮が喜びの声をあげたのは言うまでもありません。
「私の思いが通じたのだろうか。一目あなたに会いたいと願っていたのだ」
しかし、北の方は悲しそうに眉を下げました。
「懐かしいあなた、わたくしは今とても苦しんでおります。あなたの嘆きが深いばかりにこの身は現世に捕らわれてどこへも行けぬのです。次の世もあなたと同じ蓮の上に生まれたいとは願いますが、わたくしはこのままでは生まれ変わることも叶いません」
「なんと私の悲しみがあなたを縛り付けているというのか?それが御仏の法(のり)というものであろうか。さもあらん。しかし私はあなたを諦めきれないのだよ」
「残された姫たちにはあなたしかおりませんのよ。わたくしが亡くなる直前に言い残した言葉を覚えておいでですか?」
「ああ、もちろん覚えているとも。二人の愛の証である姫たちをあなたの分も私が見守ってゆくと約束したね」
「どうぞそのお約束をけしてお忘れにならないでくださいまし。心はいつでもあなたの側におりますわ」
北の方は優しく微笑みながら風に溶けるように消え去りました。
目覚めた宮の目からは再び涙がこぼれましたが、それとともに目を覆っていたものが剥がれてゆくように己を取り戻していかれたのです。
 
現実に引き戻された八の宮は無邪気で美しい幼子の姿を目の当たりにして申し訳なさにまた涙を流されました。父に向い笑いながら這う大君を、安心しきって眠る中君をどうして見捨てられましょう。
皇子である宮が子供の世話をするなどは身分柄ありえませんが、邸もあちこち綻び、人少な状況ですので手もまわらないのが現状です。
宮は御手で姫たちの世話をしてその成長を見守る日々を送られるようになられました。
いまだ近しい付き合いをしている親族などは、経済的な困窮を救うために財力のある姫を後添いとして勧めたり致しましたが、宮はけして娶ろうとはしません。
妻と呼んだ人は只一人であると心に決め、いつかまた巡り合う日を望んで念仏を唱えるようになられたのです。
 
嗚呼、しかし運命というものはどこまで残酷なのでしょう。
姫たちがすくすくと成長していた矢先に邸は失火で全焼してしまいました。
下働きの女のふとした不注意からの出火でしたが、晩秋の乾燥した空気にまるで命を吹き込まれたようにあっという間に炎は燃え広がり、轟々と唸りをあげるのも恐ろしくて、姫たちは泣くばかり。
宮は呆然と思い出のたくさん詰まった家屋がくずれ落ちるのを眺めておられました。
北の方と庭を眺めた縁側も大君と中君が隠れて遊んだ柱もすべて黒い煙となって空に昇る様が無情に思われて、体中の力が抜けるように膝をつかれたのです。
火がおさまる頃には運びだした調度が庭に積み上げられ、邸跡には黒々とした炭の塊が横たわる情景が荒涼として、その吹き渡る風は冷たく、すでに冬の気配が滲んでおりました。
 
見し人も宿も煙になりにしを
    何とてわが身消え残りけむ
(この邸で暮らした愛する妻もこの邸も煙になって空に昇っていったというのに、どうしたわけで私だけが残っているのであろうか)
 
宮は念仏を唱え、すうっと呼吸を整えると、まるで生まれ変わられたように心が穏やかに凪いでゆくのを感じました。
そうして泣きじゃくる姫たちを優しく宥めたのです。
「もう泣くのはおよしなさい。みなに怪我がなかったのが幸いです。こうして生き残ったのも御仏のご加護あってのことなのですよ」
抱きしめられて頭を撫でられると二人の姫たちも次第に落ち着きを取り戻してゆきました。
 
さて、邸を建てなおす財など宮が持ちあわせているはずもありません。
手元に残されたのは京から離れた宇治にある山荘のみです。
これから冬になろうという頃合いに草深い宇治川のほとりへ移るのも不安ですが、この京にいては雨風も防ぐこともできない身の上となったからには否応もないのです。
「姫たちや、父と共にあちらへ行こうな」
「父上さまが行くとおっしゃるならばどこへでも参ります」
姉の大君は中君の手を引き、幼いながらもしっかりと父君に答えたのでした。
 
八の宮ご一家が京を離れるその日。
益々外気は冷たさを増しておりました。
それまでの京での暮らしを物憂く感じていたものの、これでさらに世から忘れ去られることになるであろう。
そう思うと寂寥感に苛まれて、我が身にふりかかる辛い現実を噛みしめられた宮なのでした。

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