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劇薬、毒薬、その名は孤独。「Q」観劇レビュー

このnoteは2019年10月に野田地図「Q」の観劇レビューを書いたのだけれど結局公開されなかったので、納品先の許諾を得てnoteに掲載させていただいているものです。

どうも、『Q』を含む2019年10月に見た舞台の記事が何故だかPVが良い。全然理由がわからんのだけど。

というわけでもこういうわけでもないけれど、日の目を見なかったので、改めて。当時の勢いで書いているところもあるけれどそこはお目溢しいただけるとありがたい。

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今年のNODA・MAPもえげつない、壮絶だ。
毎年思うけれど、毎年思わされるというのが恐ろしい。

創造とは思考実験だ

記憶にも新しい「ボヘミアン・ラプソディ」の熱狂と、「オペラ座の夜」のテーマにした舞台・・・聞くだけでどんなものなのか想像が期待が膨らむこの響き。そしてそこに広がるは「舞台で源氏と平氏でロミオとジュリエットで!」と盛りだくさん。
歌舞伎では時代設定をずらして「実はこの登場人物は!」ということをよくやっているので、ある意味「なんでもありだな!」とすんなり受け入れてしまえたり。

そして創作というものは「もし」を少しずつずらして、”IF”を積み重ねて、繰り返した実験であるということを改めて思わされます。

「もし」、ロミオとジュリエットのロミオが死んでなかったら?
「もし」、ロミオとジュリエットのジュリエットが生き延びていたら?

その「もし」自体は確かに少しの違いなのかもしれないけれど、その少しを思いつくのが野田秀樹が野田秀樹である所以なのかなと。いや、思いついたとしてもそこまででここまで膨らますとか恐ろしい。壮大な思考実験である戯曲に呑み込まれます。

歌舞伎らしい外連味たっぷりの美術や衣装・メイクにも注目

「A Night At The Kabuki」と言うだけあって演出は歌舞伎っぽいな!と思わされるところ満載です。ぶん回し(回転扉)、宙吊りで登場、いかにも古典歌舞伎で「これ黒子が持って登場してる!」と思うような小道具の使い方。持っている何かを何かに見立てて表現する。歌舞伎は見立ての芸術で、なんでもないものを観客の想像力に任せて無限に膨らませる。
いたって演劇的だし、古典的な表現だし、でも言われてみたら歌舞伎だよなあ、とふと思う瞬間。根っこは同じですね。
メイクも巴役の伊勢佳世さんや平清盛役の竹中直人さんの「い・か・に・も!」な白塗りや見栄切りなどはとにかくかっこいいの一言。悪役っぽいポジションは、美味しい。
ちなみにこちらのお二人なんと今回NODA・MAP初参加とのこと。他にも今回の座組、初参加メンバーが多いというのも見所のひとつです。

”現実からは逃れられない”


さて主題。
ロミオとジュリエットと、それからのロミオとジュリエット
それからのロミオとジュリエットと、面影のロミオとジュリエット

何が現実なのか、何が幻なのか。物語は行ったり来たりを繰り返します。
引っ張るのは今作も巧みな野田流・言葉遊び。敵対する陣営の様をこう表現するか!と。戯曲が紡ぐ言葉がまるで歌のようで。詩のようで。
そしてシェイクスピアの「ロミオという名をお捨てになって。」という恋のセリフが全編通してこんなに効果的に使われるとは!今作品はミュージカルではないので役者がQueenの楽曲をセリフとして歌うわけではないのです。けれども、劇中の心境と流れる楽曲のシンクロぶり。時に巧みなセリフの言葉運びよりも歌は雄弁に物語る。
源氏と平氏、過去と未来、現実と・・・?相反する二つの間を行ったり来たり。何が本当なのかわからなくなる瞬間がありますが、それも含めて野田作品。今回も参りました。

そういえば。

古典歌舞伎は、「実は!」と二重、三重に設定を入れ子にしていることがあるそうです。

歌舞伎座の夜、とタイトルにあるぐらいです。
劇場で見るのは面影か幻か。
その目でお確かめください。


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