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風をはらんで、吐き出して

5月5日。
子供の日。
立夏。

上っ面しか知らないことがいまだにある。
立夏って、春分と夏至のあいだなんだって。へぇー。
子供の日って、母親に感謝する日だったんだって。へぇー。

実家は2階建て一戸建てで、1階には居間と食堂と仏壇のある和室と両親の寝室、お風呂、トイレがあった。2階はわたしの部屋と弟2人の部屋だった。

2階で眠るわたしたちこどもが、夜中にトイレに行くのに不便でないようにと、母は居間の電気をいちばんショボイ明かりにして最後に床に就いていた。階段を降りて居間を通ればお手洗いに向かう道のりは真っ暗ではない。

夜中にトイレで起きることはめったになかったのだけど、高校生の頃だったか、試験勉強をして夜更かししていた時か何かに、1階に降りたことがあった。
いちばんショボイ明かりのつもりで1階に降りたのに、居間は思いがけず普段の明るさで、そこにパジャマ姿で父のタバコを呑む母の姿があった。

母親の喫煙姿。

それまでのわたしの人生で見たことのない母の姿。
規則は守って然るべきと厳しかった母。夫にたてつくとか許されない雰囲気の中で妻の役割と3人のこどもの母の役割をこなしていた彼女。
まだ一応純粋な田舎の女子高校生だったから、女性がタバコを吸うなんて見慣れなさ過ぎて、そしてそれが自分の母親だったことが、あまりの衝撃で言葉が出なくて、精一杯振り絞ったのが「あれ?」だったと思う。

とりあえずトイレに向かって、洋式便座に腰を据える。見てはならぬものを見てしまったとひとり、個室の中でわらわらする。
トイレを出て自分の部屋に戻るとき、居間のソファにいる母になんと声をかけたらいいのだろうとひとしきり考える。
わざとおどけて「うわ、不良だぁー」と言ってみるか。
いや、なんか違う気がする。
考えた挙句「おやすみなさい」だよな。無難に。過不足なく。

明かりは普段の明かりだったのに、なんだかわたしの記憶の中ではいちばんショボイ明かりの中で、ホタル族よろしくひとりタバコを吸っている母の姿にイメージがすり替わりそうになるのを、思い出す度に正しい記憶に戻しているわたし。

あのとき、母はどんな気持ちでタバコを呑んでいたのだろう。

その後わたしが進学のために家を離れてから、帰省のときに堂々と父と一緒にタバコを吸っている母を見たこともあるので、あのときのことを聞くきっかけを失ったままだ。
父が亡くなってしばらくのあいだ、父親が好きだった銘柄を吸っていた時期もあったけど、割とすぐにそれは終わった。

夫と子供が寝静まった夜中に、居間で、どんな気持ちでいたのだろう。

何か割り切れないストレスを感じていたんだろうか。
煙とともに吐き出したい何かを抱えていたんだろうか。

自力で治癒してしまった胃潰瘍の痕があったんだといつだかの酒の席で笑って話していたことがあったけど、彼女なりにしんどかったのかもしれない、と当時の彼女の年齢をとっくに越してしまった今なら、思いを寄せられる。

わたしはタバコ呑みだ。
煙を吐き出すとき、時々、わたしは一緒に何を吐き出しているんだろうかと考えることがある。でもたいして、ない。儀式のようなもの。場を切り替えるための儀式の一環みたいなもの。

でもときどき、あのときの母親の姿を思い出す。

おかあさん。
この先もずっとわたしはあなたのこどもです。

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ちょっとおいしいおやつが食べたい。楽しい一杯が飲みたい。心が動く景色を見たい。誰かのお話を聞きたい。いつかあなたのお話も聞かせてください。