ゆるす/またはとける
テレビっ子のわたし。
今期もお気に入りのドラマを楽しんでいる。
その中のひとつ「にじいろカルテ」。
おもいがけず、氷のようなものが溶ける瞬間がきた。
つい先日の第5話。
それぞれがいろいろちょっと抱えているひとたちが住む山奥の村の診療所が舞台のこの作品。
愛するひとを目の前で亡くした、しかも、医者という立場だったから、結果事件の犯人だった男の命を救うことに向き合っていたその最中、愛する妻は急変で死んでしまったという過去を持つ、井浦新さん演じる医者がそのときのことを、診療所の同僚たちに告白するシーン。
死に方はかわいそうだったけど、あいつはかわいそうなヤツじゃなかった。
あいつは幸せに生きていた、暮らしていた。
かわいそうなヤツなんかじゃない。
ああ。
そうなんだよ。
おしまいの場面はかわいそうだったかもしれない。
でも、そのひとの人生が、そのひとが、かわいそうだった訳じゃないんだよ。
大好きな父は49歳で急にこの世からいなくなった。
病気でも事故でも、自らの意思でもなんでもない理由で。
わたしはもうじき、彼が命を閉じた49歳を迎える。
49歳まではなんとしてでも生きて、彼がみたかったであろう景色を見ようと決めていた。立場や状況は全然違うけれども。
父のことをかわいそうだと思ってはいないつもりだった。
命の閉じ方はあまりにも理不尽だから、そこに悔いというか同情というか、そういう感情を持ち合わせてはいたけれども。
でも、井浦さんの台詞を聞いて、涙があふれた。
そう、父は幸せな人生を送ったんだった。しあわせに生きていたんだ。
そのことまでも一緒くたにして封印していたのは、わたしだった。
なんて傲慢で、ひどい娘なんだろう。
そのことに気づいて、ビックリして、泣いた。
父の死を経験して、死に対してどこか達観していた。
どこかでまだ感じ切っていなかったんだな。わだかまりみたいなものを持ち合わせていたんだな。
おしまいの場面だけ切り取ると、かわいそうだけど、だからといって父というひとやその人生がかわいそうだった訳では決してない。
お父さん、ごめん。
死に方も大事なんだけど、やっぱり、どう生きるかの方が何百倍も何千倍も大事だよね。お父さんはしあわせに生きていたのは事実だったよね。
溶かしてはいけないと必死に保冷していた氷のかたまりが溶けていくような感覚。
ゆるす・ゆるされる、というのはこういう感覚なのかもしれないと思った。
この記事を書くのに、ググったときに気づいた。
脚本は岡田惠和さん。
ああ、またあなたでしたか!!
もう、勘弁してくださいよ~(苦笑)
この方の作品は、だいたいが、あり得ないようなドラマチックな展開の連続、という訳ではない。普通っぽいひとたちの普通っぽい生活がたんたんと描かれていて、その中で起こる普通っぽいハプニングから登場人物たちの心の繊細な動きが、普通っぽい会話ややりとりから掬いあげられていることが多い。
わたしはその度に、心の奥をきゅっとつかまれたり、震わされたりして、泣く。何気ない言葉に、号泣する。生きていくのって、しんどいけど、悪くない、ってその度に深呼吸する。
ゆるしを受けた感覚が消えなくて、涙が止まらない。
ゆるす/またはとける
ぎゅって握りしめ続けておくことって、実は全然必要ないんだな。
わたしは、今生かされているこの命を、しあわせに暮らすことにつかおう。
改めて誓うよ。
この回、ホントは、ドラマのない人生に不満を抱える「太陽くん」がメインの回なんだよね。
彼の「自分には何にもない」という焦りや不安、不満も、ものすごく共感する。
そこも普段のわたしなら号泣ポイントになることを付け加えておく。
人間ってなんてめんどくさくて、いじらしくて、いとおしい生き物なんだろう。岡田さんの作品に触れるたびに、ゆるされていく。
ちょっとおいしいおやつが食べたい。楽しい一杯が飲みたい。心が動く景色を見たい。誰かのお話を聞きたい。いつかあなたのお話も聞かせてください。