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カウントされない女と逃げられない男

今週もだいぶギリギリのテトリス戦闘モードだった。
コスト削減を明言され、かつわたしのプライドの問題で、在宅勤務では極力残業しないことをポリシーとしていると、ビジネスタイムのプレッシャーが半端ない・・・。スイッチをオフにしたからと言って、自分のプライベートのPCを立ち上げる余裕は、視力的にも精神的にも、ない。

そんなわたしのお楽しみのひとつ、「俺の家の話」
・・・重ね重ね、テレビっ子なもので・・・笑

クドカンの「今ここ、2021年」の切り取り方、虚と実の編集の仕方が好き。
IWGPもタイガー&ドラゴンの懐かしいコネタの数々を拾うのが楽しい。
でも、さらりと、いまわたしたちが置かれている「新しい生活様式」やら「介護」やら伝統芸能の継承も含めた「家の相続」やら「学習障害」やら生きていくのに考える必要があるもろもろが、話の筋になっている。

先日の第8話。
観山家の長女、江口のりこさん演じる舞ちゃんが、お茶の間でブチ切れるシーンがあった。その台詞が、またテレビ越しのユカちゃんであるわたしにバッコーン。ヒット。

「この家で、女に生まれて、女でいるのが、どんっだけしんどいか。生まれたときから数に入ってないわけよ。『舞はいいから』『舞はいずれ出ていくから』って。男の物差しで決められてヘコむわ、さすがに」

普通にね、舞ちゃんに共感するよ。
男性だけで継承される古典芸能の世界にどっぷり関わる家に、たまたま生まれてしまった。生まれる家は選べない。
なのに、「女」だったから、母親のお腹の中で性別がわかった瞬間から、「能をやる家」の中ではカウントされないという現実。
そして、これは芸能に関わる関わらないに限らず、わたしも言われた、

「女の子はね、いずれ嫁に行くんだから」「出ていくんだから」

女性として誕生・成長=結婚→出産→新しい家族を切り盛りする。


これが女性の幸せ、人生の王道パターンと、幼い頃から呪文をかけられた昭和生まれのわたしたち。

やっぱり、呪いの言葉だったよねぇ、と思う。
わたしはこどもをもてなかったけど、結婚なるものを経験し、生まれ育った家以外の他人を家族にするという経験もした。まあ、解散してしまったけど、離婚が公になったときのあのわたしの嵐のような感情は、恐らくはかけられてきた呪いへの最後の抵抗・最後の反発だったように、今これを言葉にしていて思う。

少し脱線するけど、先日友人とジェンダーについて話していたら、勉強熱心な彼女から「日本はダメだと言われるけど、母胎に宿って女性と分かった瞬間、この世に出さないことを認める国もいまだにある」と聞き、衝撃だった。カウントされない命。

で、戻って。

と同時に。

男性も呪文をかけられ続けている。

たとえば、このドラマ「俺の家の話」でいえば、長男である寿一は、継がなくてはならぬの呪文に耐え切れずにプロレスに自分の人生を求めたけど、家に戻ってきて再び「継ぐ」ことに向き合っている。腹違いの寿限無も、呪いをかけられた。次男の踊介は上手に逃げられた感があるけど、自分の才能のなさをあきらめ切るのには、相当こじらせたと思う。
寿一の名台詞「逃げるのも才能だ」が響くよね。

ドラマでは「能」という伝統芸能を継ぐ、という点である意味ドラマチックだけど、普段のわたしたちの日常だって、おなじだ。
不動産を筆頭に財産だったり、お墓だったり、親戚や近所付き合いだったり、何よりも「苗字」を継がなければならない。

わたしは呪文を真正面から受け取らなかったので、能天気にわたしはここから出ていくんだもーん♪と外の世界に希望を見出していた。
でも、今思えば、弟は見事に呪文に縛られていた。
伝統芸能のような立派なものはないにしろ、「長男」という単語に完全に呪われていたと思う。
進路を決めるのも、自分の希望ややりたいことは明らかにしつつも、選択の決定権を父親に委ねてしまっていた。その父が期せずして早逝した途端、「長男」の呪縛に自らかかりに行って、父の死を受け入れられずに相当こじらせた。本人が感じていたほど、周囲は「長男」を求めてはいなかったのに、そのプレッシャーと、自らの自由や希望とを、こねくり回して、こじらせていた。父の葬儀で泣けない弟が、とても気の毒に思えた。

高校卒業後、進学や就職で家を離れた同級生たちは、それほどでもないけど、そのまま地元で暮らし続けている子や、進学で家を離れてもUターン就職した子なんかの、特に男性陣は、その傾向が強いと感じていた。
家族を愛する気持ち、愛情表現の方法は、ひとの数だけ、千差万別。
でも、お酒を酌み交わしながらの会話の端々に垣間見える、「長男という呪縛」にとても、切ない違和感を感じていた。
割り切れるものではないけど、不必要に背負うものでもない。

どちらがいいとか、悪い、とかでもない。

でも、「呪文」によって、そのひとをそのひと足らしめるための「思考」を「即停止」「強制終了」を引き起こす事態になってしまっていたら、そこには不具合がある。
間違いなく、どこかのタイミングで、こじらせる。状況によっては壊れてしまう。

ご先祖さまがいるから、いまのわたしがある。
先の時代に、いろいろ苦汁をなめ、工夫をし、踏ん張って、必死に生きてきた方々のおかげで、今の便利な世の中が成り立っていて、自由な考え方を主張できるのだと心から感謝する。
だから、否定はしない。老害とか言って排除もしない。
その時々、必死でベストを尽くしてくださったんだと思うから。

そして、今、このときも、わたしたちが、同じように、生きている。
何年かした後の若い子たちが、「ええ?そんな大変だったの?」「何それ?あり得ないんですけどー」って思ってもらえる未来があると思う。

必死過ぎて気づかなかった、手が回らなかった、時を経て意味不明を露呈する呪文や小さな違和感は、こうやって脈々と継がれていく。
少しずつでも、違和感を「なんかコレ、違くない?」って声にして、
少しずつでも、「あ、これでいい感じじゃない?」って変えていこう。

どんなであってもその存在をひとりの人間としてカウントする世界。
”逃げるのも才能”と言える世界。
”逃げるは恥だが役に立つ”と堂々と言える世界。

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選択の選択肢は2つとは限らない。
たくさん持ち札を持っている方が優しくなれる。余裕が生まれる。
世界は、上下でできているわけではないよね。地球が丸いように、本当は全部つながっているよね?どうだろう。





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