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書くことは体に良いという気づき

noteの投稿を日本語で始めて数か月。10投稿くらいしたのかな。まだまだ赤ちゃんレベルであるけれど、母国語で書ける自由さに、涙がでるほどだ。これほどまでに私は「英語で書かなきゃ呪縛」に縛られていたのか。イギリスに住み始めたのは20年以上前。ジュエリーデザイナーの仕事を始めたのも、SNSが流行り始めたものそのあとだったから、読んでもらう対象はどうしても地元の人が多くなり、となると英語で発信することになっていった。ビジネスがらみのものは正確で簡潔に。プライベートなものは短めに。そうやって、最小限に、間違いがないように書く場合、書く満足感がない。日本語で書いた文を英語に翻訳するのも、何だか違う気がしていた。そうすればよかったのかもしれないけれど、翻訳された意味が同じであったとしても、自分から発せられたのではない言葉を自分のものとして出すことが腑に落ちなかった。

昔はよく手紙を書いていた。物心ついた時から、自分の近況を書いて送ることを数人の友達や家族とかなり頻繁にやっていた。一日一通くらい書いていたんじゃないかと思う。いつも手紙を書くための便せんや封筒は買いためていたし、切手もシールも、書くための綺麗なペンも、常に探し求めていた。書くことと、それに伴う作業や物がとても好きだったことを思い出す。読んでもらって、返事をもらうことの楽しさとともに、自分の思いの丈を綴る機会があった。なぜあんなに楽しいことを今は全くしていないのか。

日本語の創作物に触れる機会に関しては、海外にいても、かなり増えた。これもとても画期的で、有難い。海外に住んでるからしょうがないと思って、あまり考えないようにしていた。でもコロナの影響もあって、Netflixで毎月映画やドラマが見られたりするようになり、(日本で放送されているものに比べて数はずっと少ないけれど)日本語の作品に触れる機会が増えた。どんなに海外生活に慣れても、母国語への枯渇感は、年を重ねるごとに増していく。今でも新しい日本映画や新しい本などはなかなか見られないものが多いけれど、それでもだいぶ日本語飢餓状態からは脱することができている。

数か月前にnoteに書き始めた頃は、「何を書くべきか」みたいなことを考えて躊躇しているときもあった。今は書きたいことや、書いて整理したいことがたくさんあり、書くためにあそこに行ってみよう!みたいな気持ちにもなってきた。実際今日行ってきたし。それはちょっと健康的な良いサイン。

noteを書き始めた時は、「だ」調にして、その後「ですます」調にしてみた。丁寧なほうがいいのかなと思って変えたけれど、私には「だ」調のほうが向いているような気がしてきたので、この投稿から「だ」調に戻してみた。何事も、できるだけ自分にしっくりするものを選んでいくほうが体にいいと思う。

結局、「書くことは体に良い!」という、意外そうで、意外でもない結論に辿り着いた。


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