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私が言語化をする4つの目的。「もや」を言葉にする意義について

誰かと話す、仕事をする、本を読む、音楽を聴く。暮らしの中で日々たくさんの刺激を受け取り、何かを感じたり考えたりする。

生まれた感情や考えごとは「もや」として自分の中に一時的に蓄積される。放っておけば「もや」のほとんどは蒸発して消え、印象だけが残る。

蒸発してしまう前に、その「もや」を言語化したい。

自分が言語化する理由について考えてみると、思考、伝達、記憶、そして感情の昇華が目的だと気づいた。それについて詳しく書いていく。


言葉は思考の道具である。思考のための言語化

日常的な考えごとをしているときの多くは、論理的な思考をしているのではなく、物思いに耽っている状態だ。そのことは、書き起こして整理してみると自分でも恥ずかしいほど明らかになる。論が通っていなかったり、抽象的すぎたり、そのとき思い浮かんだ比喩が実は適当でなかったりすることに気づく。

言葉という道具を使って考えを可視化し、整え直すことが、本当の意味での「思考すること」だと言える。電通のコピーライターの梅田悟司さんという方が、電通報の記事でこのように語っている。

自身の経験を思い出していただければ分かりやすいのですが、人は多くの場合、言語は違えども、言葉で疑問を持ち、言葉で考え、言葉で納得できる答えを導き出そうとしています。言い換えるならば、自分という存在や自分の考え、価値観と向き合い、深く思考していく役割も、言葉が担っているのです。

https://dentsu-ho.com/articles/4442

言葉はコミュニケーションの道具としての役割だけではなく、思考する道具でもある。言葉にできないことは考えていないのとおなじだ。そういうことを梅田さんは語っているが、自分の経験に照らしてもその通りだと思う。だから、「考えごと」を整理して思考するために、言語化は必然なのだ。

頭の中を他者に伝えるため。伝達のための言語化

自分の中だけにある思いや考えを他者に伝えようとするとき、それを言語化した上で、相手に合わせて情報の粒度を変えたり、伝わりやすいように翻訳する必要がある。

伝えたいこと、例えば、「仕事でこんな出来事があってね、自分はこう考えたんだ」とか。「この映画を観てなかなか面白かったんだけど、部分的にはちょっと違和感もあったんだ」とか。「ある人とこんな話をしてね、結構な衝撃を受けたんだ」とか。

そういったことを伝えようとするとき、前提や背景、文脈が共有されている相手には、少ない言葉でも伝わる。「あの映画見た?」「見た見た!○○さん監督のやつね!」「そうそう、あのラストシーンなんだけどさ…」といった具合に、映画の説明を省略できる。
一方、それが共有されていない相手に伝えるには、前提情報の言語化から必要になる。これには結構な労力が必要だ。映画の例で言えば、映画に興味のない自分の家族にその話をしたいとき、物語のあらすじや、自分がその映画に興味をもった理由、世間での注目度や評価についての説明が必要かもしれない。

それでも伝えたいなら、言語化と翻訳を、怠けてはいけない。きっと伝わるはずだと信じて適切な方向に熱量を込めないと、伝えたい形で伝わらない。そこを怠けて、大部分の推察を相手に委ねていながら「わかってくれない」というのは傲慢甚だしい。

…と、ここまで書いておきながら、「映画の話は、前提を共有している相手とだけ話そう〜」と思った自分もいる。だって、めんどくさいから。

めんどくさくても伝えたい、伝えなければいけない、というときにだけ頑張ればいい。

時間に栞を挟むような、記憶に残すための言語化

忘れてしまいたくない、時間が経っても大切に残したいことがあったとき、その核を捉えて自分の中に長く鮮明に記憶するには形を与える必要がある。

例えば、ふと見上げた空の美しさに心を打たれたとする。それは何も形にしなければ、「秋の夕方の空が綺麗だったな」という大雑把な印象としてしか残らない。それすらも忘れてしまうかもしれない。

それを、例えば言葉で残そうとすれば、こんな具合になる。

「2023年11月13日の16時40分に一人で自宅のベランダから見た東の空は、夕焼けのピンクと昼の水色がグラデーションとなり美しい色彩を描いていた。この空の色をワンピースにして身につけたいと思った。いまの季節は秋だけれど、そのワンピースは春が似合いそうだった。美しいグラデーションを背景にして、陰影の強い大きな雲が2つ浮かんでいた。それぞれの存在感があり、まるでオブジェのようだった。リビングの壁に専用の飾り棚を取り付けて雲を飾り、夜に眺めたいと思った。それから最寄りのコンビニに出掛け、煙草とチョコレートを買ってからコンビニを出て東の空を見上げると、もうその景色は失われていた」

こうして言葉にすることで、情景をより鮮明に残しておくことができる。

つまり、自分が残したいことの核を捉え、記憶を蘇らせるための手がかりをつくる。手がかりの形は言葉に限らず、写真でも、絵でも、歌でもいいかもしれない。自分の場合、空の写真を撮って心情まで残す技術が無いので言葉が楽だ。とにかく、ここだ、と思う核の部分に形を与える。そうすることで、消えていく「もや」だったものの長期記憶が可能になる。それは時間に栞を挟むようなこと。もう一度読みたいところを言語化しておくと何度も楽しめる。少し貧乏性なのかもしれない。

もやもやを形に。感情を昇華する手段としての言語化

整理しきれない感情がなんとなく自分の中に溜まってしまうときがある。誰かに吐き出すこともできない、だけど一人で消化することも難しく逡巡してしまうような、混沌とした感情、もやもやした思い。それは言語化することで昇華されることがある。言語化に限らず、絵でも音楽でも何かしらの表現として形を与えることが、感情を昇華するのに有効な手段だと思う。

何かを表現するプロセスとして、表現する対象を明確にする作業がある。混沌とした感情であっても、その混沌の構成要素を分解し、自分自身が理解する必要がある。その上で、どのように表現するかを検討し、アウトプットに落とし込む。それらをあくまで作業的に実行することにより、逡巡から抜け出すことができる。

放っておけばただもやもやした状態が続いてしまうところを、表現のための具体的な行動に変えることで打開できる上に、アウトプットとして完成させた満足感が得られる。そして、出来上がってしまえば一旦はそれについて「考え終えた」という区切りとなる。

何を言葉にするかは自分で選べばいい

全部が全部、残したいわけでもない。印象として何かは残るし、経験した事実も残る。強烈な刺激であるほど何もしなくても自然と残る。
温泉に入ったときの「·····ア゛ァ~」を形にする必要ないし、じゃあそれが読書だと違うかって、そのとき一時的にでもなにか受け取った、ということだって全然いい。整理しきれない感情もそう。もやもやさせたまま蒸発するのを待ったっていい。

生きている時間も、生きていくのに背負っていける荷物も限られている。だからこそ、何に時間を使い、何を未来に持っていきたいかは、自分で取捨選択をしたい。



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