哀が愛であるならば、涙は友を呼ぶ。
「悲しみ」と「哀しみ」
日本ではカナシミという言葉を
この二つの漢字で表す
言葉は同じでも意味はまったく違う
「悲しみ」は
苦しいだとか、悔しいだとか、辛いだとか、
そんな悲観的な感情を表し
「哀しみ」は
憐れんだり、愁たり、慈しんだり、
誰かや何かを思いやるが故の感情を表す
ではここであなたに聞こう
自分の人生をふと振り返った時
あなたがこれまで流した涙は
果たしてこのどちらが多かっただろうか
きっと大半の人が
「悲しみ」のほうが多いと言うだろう
なぜなら「悲しみ」は
自らが直接受けた傷がそうさせるものであって
その傷跡の数が記憶を司っているからこそ
そちらにばかり意識が向いてしまう
『痛み』というものはそういうものだ
ならこれが『悼む』に変わるとどうだろう
これは自らが受けた傷ではなく
大切な誰かや何かが傷ついている様を
目の当たりにしたときの気持ち
これこそが「哀しみ」だ
私はどちらかと言えば
こちらが多い人生のほうが
よっぽど素敵だと思っている
他人の痛みを悼むということは
すなわち『愛』なくしては成し得ないからだ
しかし相手の気持ちをどれだけ慮ろうとも
きっと100%を汲み取ることはできないし
そもそも自分が先に傷を負っている状況においては
自分以上に相手の悲しみを憐れむほどの
心の余裕はないかもしれない
「どうして私ばかり」
「痛い、苦しい、悲しい・・・」
そんな独りよがりな感情に支配されて
どんどん視界は狭くなって
人からの愛も哀も
煩わしく感じることもあるだろう
それでも
そういう時こそ
自分ではなく
まずは相手に愛を向けようと
行動できる人でありたい
たとえ手足がすぐに動かずとも
心だけはそちらに向けられるようにしたい
自分の痛みを自分自身が理解することは
誰でも簡単にできることだけど
相手の痛みを
限りなく自分の痛みのように感じ
際限なく愛を向けようとすることは
誰しもができることではない
だからこそ私はそうしたい
そうしようとしたい
自分の痛みばかり庇っていては
自分の痛みばかり見つめていては
自分に対する愛も
まわりに向ける愛も
それ以上のモノが生まれることはないのだから
偽善だと言われようと
お人好しだと言われようと
それをするか否か
どちらが正しい道であるかは明白だろう
最初は行動できなくてもいい
思うだけでいい
たったそれだけのことでも
自分だけに向いていた愛が
相手の方向に大きく伸びてゆくだろう
そうして見えなかった世界が少しずつ広がり
まだ見ぬたくさんの愛を知っていけたなら
それほど素敵な人生はない
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花崎由佳(はなさきゆか)
『ココロに灯りを、人生に彩りを』をモットーに
私が撮影した写真と、エッセイやコラム、
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