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ある高校生とのやり取りの中で、私の中でぼんやりとしていたひとつの考えがはっきりとしたものになったので記録しておく。私は、キリスト教カソリックの幼稚園に通い、その後はプロテスタントの学校で学んだが、クリスチャンではない。家は浄土真宗だが、自身は仏教徒ではない。聖歌隊のメンバーで日曜学校に通ったり、宗教とかキリスト教概論という授業が必修だったこともあり、宗教は常に身近にあり、人の生活や人生の一部にあることは、お宮参り、結婚式とお葬式だけ、という接点の人よりは多少理解していると思う。また、日本古来の宗教観とでもいうのか、神道の大もとかそれ以前のような、山、川、海、石、動植物など自然そのものに対する畏敬の念が強まった信心に近い感情はあるように思う。

そのように私が信じているものの一つに、言霊(ことだま)がある。言葉はその命を魂に載せて発せられ、漂う、と考えている。最近、ある高校生とその小学生の妹の家に行った際に、受験やコロナ禍でのステイホームその他諸々のストレスなどから、家の中での会話が殺伐としたものになり、何かあるごと腹立ちまぎれに「バカ」「カス」「死ね」と言ってしまっている、という話をしてくれた。家族とは何を言い合っても良いが、本当は何よりも大切で絶対に健康でいて欲しい対象だ、と言っていた子が同じ口でそう言っているのは聞き捨てならなかった。そんなことは言ってはいけない、と言っても、わかっていても言ってしまっているものを止めることは難しいと感じ、そうだ!と思い出して、言霊の話をした。

今日この瞬間から、もし「死ね」という言葉を発してしまったら、次の朝起きると、まるでゲームの中のように、その相手はこの世から消えてしまっている、ということになっている、と想定してみよう。言葉にはその感情が宿った命があって魂に乗って、一度口から、または文字として発せられると消えずに漂う、ということを説明した。つまり永遠に有効。簡単にかき消すことはできないのだと。後日会った際に、彼女たちの家庭から、「死ね」という言葉は消えたと教えてくれた。

以前に、この高校生がわが家に遊びに来た際に、山で捕れた鹿を料理して振舞ったことがあった。なんでも美味しいとよく食べる彼女は、珍しいそれを喜んで食べてくれた。そして、最近、鹿が家のそばを通りかかり、そのかわいいバンビの写真をインスタグラムに私が投稿したのを見て、「今度捕れたらまた食べさせてね」とコメントをくれた。が、この子は食べないのだ。この鹿という美しい動物を眺めて惚れ惚れした私はそう考えていた。

ここにいると、農家にとっての害獣として捕らえられた鹿や猪をよくいただく。地鶏の有精卵も、冬を耐えて春に芽吹いたフキノトウやタラの芽をポキリと摘んでしまう瞬間も、その都度、命を戴いている、と感じる。大切に料理して、残さずにいただくようにしている。彼らの命は私の身体に移って命を繋いでいると感じながら。命は一人一人のもので、一つの身体の中で絶える日が来る。しかし、魂が、ひとつの身体の中では絶えた命を載せて漂いながら次の場所へ運んだり、運ぶ時を待っていたりするものなのではないかと考えた。

言葉の命も、生きとし生けるものすべての命も、魂として永遠に漂い、巡って、繋いで、影響し合っている。そんな中の一媒体として数えきれないほど沢山の命をいただきながら、悠久の時の中のこの瞬間、広大なユニバースの中のこの場所に自分が存在している、と感じている。感謝とともに。



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