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<書評>『エトルリアの遺跡』

『エトルリアの遺跡 Sketches of Etruscan Places and Other Italian Essays』 D・H・ロレンス David Herbert Lawrence著 土方定一・杉浦勝郎訳 美術出版社 1973年 原著は1932年 New York, The Viking Press

『エトルリアの遺跡』

 原題を直訳すれば、『エトルリア地方の素描及びイタリアのエッセイ』となり、「遺跡」=ruinsという単語は使用していない。『チャタレイ夫人の恋人』で著名なD・H・ロレンスが、アメリカ人の知人の画家アール・ブリュウスターEarl Brewsterとイタリアのトスカーナ地方(古代エトルリアがあった)を、遺跡巡りをしながら旅をした記録である。従って、遺跡に対する分析・研究というよりも、第二次世界大戦前のトスカーナ地方のまだまだ田舎然としていた鄙びた風景を、作家及び英国人しての印象にまとめたエッセイになっている。しかし、巻末の解説にあるとおり、ロレンスとしてはさらに多くの遺跡を訪問する予定であったが、病に倒れてしまし、結局完結しないうちにロレンスは亡くなってしまった。そのため、最後の文章は中途半端な感じが否めないものとなっているが、ロレンスの死後そうしたことも含めて発表された。

 そうした旅日記的な内容となっているが、一方で画家としての才能も持っていたロレンスは、エルトリアの遺跡に残された壁画等を見て、その芸術的レベルの高さに感動している。ヨーロッパの古代芸術では、一般的にギリシアが最高で、ローマがそれを模倣したものという格付けがあるが、これに固執するあまり、ローマに滅ぼされたエトルリア芸術は長く評価されずにいた。そうした中で、ロレンスの目利きによってエトルリアの芸術はその素晴らしさを正しく評価されることとなった。本書はそうした新たな発掘・発見の記録ともなっている。そのため、日本では、「遺跡」の文字が標題にあるものの考古学の本としてではなく、美術書としての扱いで出版されたのだと思う。

「タルクィニア 卜占官の墓」

 ところで、私もnoteにたまに旅行記を掲載しているが、その内容は旅行ガイドのような案内ではないし、また「こんな珍しい体験をしました!」や「こんなに楽しい旅でした!」というようなものとしては書いていない。例えて言えば、松尾芭蕉が『奥の細道』に表現したような、旅先での自らの心境を綴るものとして書いている(実際、自由律俳句という形式で句作もしている)。それは、私個人の見たもの聞いたもの体験したものから得た、その時々の感情や頭に浮かんだよしなしごとを文字にしている行為である。そのため、万人共通のものとはならず、どこまでいっても私個人の来歴を踏まえた極めて特殊で個人的な、いうなれば私小説的な世界といえよう。

 ただ、そうした私小説的世界による旅の記録を、第三者が読んだときに、「こんな感じ方があるのか」、「こんな風にも見えるのか」ということで、手垢がついているような旅先であっても、少し観点を変えただけで別の楽しみ方ができる、つまり日常であったものが、自分の気持ち一つで非日常になる、という契機になれれば良いと、私は思って掲載している。また、そうした読み方をしていただきたいとも願っている。

 私の旅日記を、芭蕉やロレンスと同列に扱うのは誠におこがましいしが、本書をそうした観点から私が読んだということをお伝えしたい。そして、そういう観点から読み進めていったところ、ロレンスの文学的才能が発揮された箇所、考古学的あるいは美学的に慧眼と思われたところ、さらに1920年代のファシズムに支配されたイタリアの風土を繊細に分析している文章、そしてロレンスの哲学的思考などが多々あったので、これらを抜粋して紹介したい。

 なお、引用文の後に<個人的見解>として、私が引用文から汲み取った意味あるいはそこから発想したことなどを付記した箇所がいくつかあるので、参考になれば幸いである。また、ページ数の次の( )は、ロレンスが訪問した遺跡の地名であり、( )表記のないものは、前項と同じ場所のため省略している。

P.50(チェルヴェテリ)
 ある墓の入口のところには、彫刻を施された家の形をした石があったり、また長方形の屋根の二つの側面のように傾斜した蓋のある石の箱みたいなものがあったりする。鉄道で働いていてあまり学問のないガイドの少年は、女の墓には、その入口の上のところに、こうした石の家か石の箱が置いてあるし、男の墓には、陽石(注:男根像)が置いてあったのだ、ということをつぶやくようにいった。

 少年のいう石の家は、ボートのついていないノアの方舟を暗示している。われわれが子供のころ動物で一杯にしておいた、あのノアの方舟だ。そして、それが、いわゆる箱―Ark・Ark―つまり、子宮なのである。すべての生き物を作り出す世界の子宮であり、すべての生き物が最後に逃げ込む場所としての子宮である。永遠の生命の神秘が、心霊のかてが、そして不可思議がそのなかに盛られた「契約の檻」(The ark of covenant: Exod. 25:10 出エジプト記)(注:旧約聖書でモーセの十戒を入れたといわれる「契約の箱」のこと)としての子宮なのだ。それが所を換えて、チェルヴェテリのエトルリア墓地の門外に立っているのだ。

P.78(タルクィニア)
 キリストや釈迦の言葉が忘却の彼方に消え去りし後も、ナイティンゲールは歌い続けるであろう。なぜならば、それは説教でもなく、教訓でもなく、勧誘でもないからだ。それは歌なのだ。最初にあったものは「言葉」(注:旧約聖書「創世記」に「はじめに言葉ありき」とある)ではなくて「囀り」であった。

 ひとりの馬鹿者がナイティンゲールに石をぶっつけて殺したからといって、そいつがナイティンゲールより偉いといえるだろうか。ローマ人がエトルリア人を亡ぼしてしまったからといって、エトルリア人より偉いといえるだろうか。とんでもない。

「タルクィニア 装飾された壺の墓」

P.93(タルクィニアの装飾墳墓)
 エトルリア人は本来イタリア人の本性と思われるものを完全に実現したのだ。単一独立の都市をつくり、周囲には適当な領地をもち、各地域は独自の言葉をもち、それぞれの小さな首都に安住する一方、都市国家としての全連邦は共通の宗教と、多少の差はあっても共通の利害関係によって、ゆるやかな結合体を作っていた。・・・古代エトルリアにおいては、いわゆる「国家(ネーション)」という、あまり緊密でない結合体のなかで、それぞれの個性に従って発達した都市の独立は完全に行われていたに相違ない。

P.119
 すべての偉大なる発見や結論は予言の行為によってもたらされた。色々な事実は後になってから付け足されたものだ。予言へのすべての試みは、たとえ、祈祷ですら、理論ですら、探求ですら、心の純粋さを失えば、たちまち詐欺へとなり下がる。心が純粋でないとき、ソクラテスもしばしばその論理を、不快にも、ごまかした。懐疑主義が次第に古代社会を覆ってくると、疑いもなく鳥占者も腸占者も詐欺師となり、ペテン師になり下がった。とはいっても、彼らは尚数世紀にわたって権力をもっていたのである。

P.127
 うす暗い、うらぶれたホテルには日本人が三人、泊まっていた。小柄な黄色い男たちである。タルクィニアの下の海岸にある製塩事業を視察にきたのだといっていた。官費の旅行者である。製塩事業は、海をせきとめて作ったプールから塩を煎じ出す仕事で、まさに牢獄の作業であり、強制労働で行われている。どういうわけで日本人は官費でこんな場所を視察にくるのだろか、不思議なことだ。

<個人的見解>
 文章をそのまま読めば、1920年代にイタリアの製塩事情を視察にきた日本の政府関係者と取れるが、実際はいわゆるスパイであったと思う。日独伊三国同盟を結ぶ前のイタリアにおける国情を地方各所で探っていたのではないか。特に塩は重要な戦略物資だから、視察(スパイ)する目的は十分にある。

P.136
 ・・・(墳墓内の壁画にある)肩の後から山羊の頭の生えているライオン(の図像)には何かの意味があるにちがいない。フィレンツェの博物館にある有名な「アレッツォのキマイラ」には生き生きとした意味がある。・・・髭の生えた山羊の頭はライオンの肩から後の方へねじくれて生えているし、山羊の右の角は蛇に喰いつかれている。その蛇は背中越しに巻きついているライオンの尻尾なのだ。・・・これこそ、腰と首にベレロポーンの傷を受けたキマイラでこそあれ、単なる大きな玩具ではないのだ。

「キマイラ(注:エルトリア以外の出土品)」

 それは、厳格な秘教的意義をもった、あるいはもとうとしてきたものなのだ。事実、ギリシア神話は非常に明朗にして且つ、非常に古い時代の秘教の観念の広大な表現にすぎないものなのであって、それは神話以前であり、ギリシア人以前なのである。われわれの知っている神話だの、神たちなどは、それに先行する宇宙的教義の宗教の堕落した姿にすぎない。

「タルクィニア 牡牛の墓」

P.150
 古代の宗教は自己を自然と調和させ、自己を堅持し、人生の奔流のなかに自己を開花せしめんとする深遠な試行であったが、それはギリシア人やローマ人によって、自然に反抗し、狡猾な精神と機械的な力を生み出そうとする欲望にすりかえられてしまった。自然をだしぬき、自然をがんじがらめに縛りあげ、終に自然のなかにはいささかの自由もなく、統制され、馴致されてしまって、自然は人間どもの卑劣な使用に供されるようにいたってしまった。まことに奇妙なことではあるが、自然を征服せんとする意欲とともに、陰鬱なる黄泉の国、地獄と煉獄の考えが生まれてきたのだ。

P.165(ヴルチ)
 ・・・冬になるとハンターたちが狩猟服に身をかため、犬をつれ、手回り品を抱え、てんやわんやでローマやフィレンツェからやってくる。・・・この分でゆけば、この世に生き残る動物というものは、全部、飼い慣らされた奴だけになってしまうだろう。人間とはもっとも飼い慣らされていて、しかも最高にうじゃうじゃ群をなす動物なのである。

P.186-187(ヴォルテルラ)
 要するに、イタリアの行事――特に政治的な行事の場合――が片田舎で行われる場合につきものの、卑屈な冷笑と嘲罵とおどしの入り混じった、あの雰囲気である。その人々は、石膏掘りの人夫と、わずかばかりの百姓だけだが、自分たちがどちら側についていいのかはっきりしないが故に、反対側にいる奴はいつ何時なりとも皆殺しにしてやろうと見構えているようにみえる。

 この根本的な不安と焦慮とが、イタリア人気質の一番妙なところだ。何物をも信ずることのできない彼らは、何事に対しても全身全霊をもってぶつかって行くことができないようだ。そして、この不信が、政治における狂暴と逆上に根を下ろしているのだ。彼らは自分自身すら信じることができないのに、どうして「支配者」や「政党」を信ずることができようか?

<個人的見解>
 現代イタリアの政治状況は、常に「少数政党による混乱」と表現される。左も右も中道も安定した政権を樹立することができず、常に不安定な連立内閣が右往左往する政治を行っている。イタリア人は既にイタリアの政治を諦めているようだが、それよりも、ロレンスの指摘する如く、イタリア人自身が政治を信ずることができないところに、問題の核心はあるようだ。それはまた、極東の島国でも同様な気がする。

P.198
 古代においては、あらゆる力の中心は地底にあり、海底にあり、太陽はただひとつの副次的な動くものであり、蛇は地下の活力の表現で、それは火山や地震などばかりに代表されるものではなく、木々の根を走り上がって樹体をかたりづくり、木々の生命を作りあげ、人間の脚にまでからみ上がって、心臓を創りあげるものなのだ。

 魚は水深の象徴であって、その深度から光さえが誕生するのだ。それを思えば、われわれはこれらのシンボルがヴォルテルラ人の想像のなかに占めていた太古の力をみることができるであろう。彼らは海に面した火山の国に生きていた人たちなのである。

「タルクィニア 狩と漁の墓」

 大地の力も、海の力も、生命を与えると同時に、生命を奪いもする。それは生産的な面と狂暴な面を同時にもっていた。

<アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、私の各種エッセイなどです。ロレンス的な視点で書いたものが多数ありますので、宜しくお願いします。>


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