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<覚書>『現代思想 総特集 ウィトゲンシュタイン』

『現代思想 総特集 ウィトゲンシュタイン』1985年12月臨時増刊 青土社

現代思想 総特集 ウィトゲンシュタイン

 いつものような書評ではなく、難解な哲学論文が多数入っていることもあり、その中から私の琴線に触れた部分を抜き書きしたい(特に私が重視した部分を太字にした)。特に、文学や芸術との関連は強く興味を惹かれたが、言語に関する論考も同じくらいに興味を惹かれた。

 なお、最後の日本の哲学者たち3人による鼎談において、ウィトゲンシュタインを「素人の哲学者」、「専門家でないからこその自由な視点」、「専門家でないため、途中で投げ出す傾向がある」、「一時の流行は終わったが、ウィトゲンシュタインは未だに興味ある研究対象」等と述べていることが、意外と面白かった。

 一方、本特集が出版されてから29年経った2024年現在の、ウィトゲンシュタインに関する関心は、特に日本においては、ライトノベルや短時間の映像(ユーチューブやインスタグラム等)がもてはやされる状況もあり、一般に哲学は軽視され、学術的な研究は(もともとそうだが)儲からないからと忌避されているため、ウィトゲンシュタインのような「暇と金のある変り者」がやるものになっているようだ。

 この二つの観点からすれば、「素人の(自称)哲学者」と「暇がある(ただし金はない)変わり者」という条件に合致するので、私もウィトゲンシュタイン的な哲学者の範疇に入れるのかも知れないと、勝手にほくそ笑んだが、そもそもの頭の作りも勉強量も比較にならないから、ほら話は止めておくのが肝心だ。

 しかし、哲学をないがしろにした社会や文化は、いずれ崩壊し、滅亡することを人類の悠久の歴史が証明している。安楽なものを安易に選択しするが、それもすぐに飽きてしまい、次の目新しい安楽なものを探す社会や文化は、「ソドムとゴモラ」という旧約聖書の比喩が最適である。

P.145
「『ウィトゲンシュタインのウィーン』と『論理哲学論考』」ドミニク・ラカプラ、加藤泰史訳

 ウィトゲンシュタインは、他の著述家について自分の見解をほとんど述べていないが、極めて稀なことに、フロイトに関してはその見解が報告されている(ラシュ・リーズの報告)、という点である。
 恐らくこのことに関連した第二の論点は、現在では推測して状況証拠に訴えざるをえないような考察に関わるものである。この点について、ジャニクとトゥールミンの主張にはさらにまた排除されていることがあるが、それを指摘すべきかどうかは迷うところである。この場合それは、ウィトゲンシュタインの同性愛という未解決の問題―ジャニクとトゥールミンはこの問題に全く言及していない―に関わっている。この問題は、ウィトゲンシュタインの解釈の次元ではゴシップの領域に属するものではないが、しかしそれに関係する「証拠」は現在ではゴシップ的性格を持っていることが多い。

P.283
「仏教の言説戦略 言語ゲーム・ルール・テキスト」橋爪大三郎

 仏滅以来、サンガ(注:仏教修業者の共同体)には権威ある指導者が欠けている。そしてサンガは、正規な手続きをふみ、いくつかの条件を満たせば、つぎつぎに設立される。現前サンガは、いわば対等に細胞分裂してゆく。サンガは自発的な比丘(仏教修業者)の集まりであって、サンガの全体にはどのような統制も及ばない。

 そこでいよいよ、サンガの組織原則と比丘の修業との関係について、考察するばんである。
 仏教教団の集団戒律―律―。中国及び日本では、古来しばしば「戒律」と呼びなわされてきたが、近年の研究によると、それは漢訳上の行き違いの産物で、もともとインドに「戒律」なる概念はないという。そのかわりに認められるのは、戒と律との対象である。

 「戒sila」とは個人的な者で、ひとが自分で規則に従っていることをいう。戒は個人の内発性・自発性に基づく。外的・集団的強制に基づくものではない。修業生活の実態は、この戒を持するところにある。しかるに、ブッダ在世当時からすでに、解脱をめざす修業者らがいて、いろいろな方法(戒)を試しており、どの戒に従えばよいかについて一致がなかった。ブッダの示したのは、そうした修業法のひとつだった。サンガの比丘らは、そうした修業法を共有する。

 これに対して「律vinaya」は、サンガの集団規律である。律は、制裁を伴う外的拘束で、強制的であるという点では、通常の法規範と変わりないようにみえる。律は、ブッダの制定によると伝えられ、変更できない。(*)サンガの同一性は、律に支えられている。(在家の仏教徒に、律の規範は及ばない)。

* ある伝承によれば、ブッダは実情にあわない律の条項を一部修正してもよいと言いおいた、という。しかし、論理的に考えれば、律は四方サンガに対して与えられたものであり、それを現前サンガが改めることはできない、と考えるのが正しいであろう。

 律は、律蔵のかたちでサンガに伝持されている。それは大別して、ふたつの部分からなるひとつは、サンガで修業する比丘各人が守らなければならない、個々人の行動準則(「波羅堤木叉」)もうひとつは、サンガの共同生活をおくるうえで守らなければならない集団規律後者は、サンガの意志決定(羯磨)を行うための議事手続き規則などを含む。これらは、サンガの集団生活をおくる必要上守らなければならないだけで、規則の定める行動それ自体に価値はない。これに対して前者は、仏道修業の実質である、この規則を守る行為それ自体に価値がある。この規則に従うことが、サンガに加入する目的であると言ってよい。*

 * 修業のためならば、なにもサンガに加入せずとも、ひとりで修業生活をおくればよい、と考えるむきもあるかもしれない。けれでも、ひとつには、人間は弱いため規則に完璧に従っていくことが難しいので、互いに励ましあい監視しあうことに利点がある。また、比丘が守るべき律の内容は、サンガの正式メンバー以外の人々には秘密にされていたので、サンガに加入する以外に仏弟子としての修業はできない事情もあった。

P.317-318
「言葉の用法 マグリットの作品における」スージ・ガブリック 岩佐鉄男訳

 ウィトゲンシュタインは彼の哲学全体を《われわれの言語という手段を介して、われわれの悟性をまどわしているものに挑む戦い》と見なしていたマグリットもまた言葉とイメージを用いた彼の絵画において、われわれの言語習慣の中にあまりに深く根づいているために気づかれさえしない混乱と過度の単純化に証明をあてようとしている
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 現実についての逆説的ではない陳述とは、宇宙は唯一あれだとか唯一これだと宣言しようとする、たんなる結論の選択にすぎない。こうした考えはマグリットの見解とは相容れないものである。
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 1930年代の現実と錯覚に関する形而上学的理論の探求と並行して、マグリットは日常言語がいかにして思考を偽るかを問い続けている。人間のコミュニケーションにおいては、対象を指し示すのに二つのまったく異なったやり方が可能である。それは名前で表示することもできるし、その対象になんらかの類似もしくは類同を示す絵によって表象することもできる。しかし、名前とその名をつけられた物との関係は、恣意的に設定されたものである。なぜなら、なんらかの語とそれが表している物の間の相互関係は、意味論上の約束事の力によってしか、存在しないからである。

P.361
「ウィトゲンシュタイン、ノンセンス、ルイス・キャロル」ジョージ・ピッチャー 栂正行訳

 例えば、ひとりまたは二人以上の人が規則にしばられた活動と呼べるものにかかわっている場合について考えてみよう。この時、外部の観察者は競技者の従っている規則がどのようなものであるかといかにして確定することができるであろうか?もしそれがひとつのゲームであれば、観察者は「そうした規則を、ゲームを支配している自然法のように、ゲームの実践から読み取ることができる」[『探求』、54]であろうか。しかし、その場合「観察者はどうやって競技者のまちがいと正しいゲームの行為とを区別するのか?」[『探求』、54]。あるいは、さらに厄介なことは、外部の観察者――あるいはこの点に関して競技者自身――は、競技者が(ただ単に)規則と調和して[たまたま違反することなく]行為を行っている場合と、競技者が[承知のうえで]その規則に従って、あるいはのっとって行っている場合との違いを、いったいどうやって確定しうるかということだ(『青色本』、13頁を見よ。周知のようにカントは道徳の領域においてこの区別の重要性を強調した)。

P.369
同上

 アリスの世界は狂気の世界であり、彼女はその犠牲者だ:アリスは自分の出会う気ちがいたちのノンセンスに対してまったく無力である――彼女は決して勝つことはない。ウィトゲンシュタインの見解によれば、哲学者の精神とはまさしく内面化されたアリスの狂気の世界なのだ。

 哲学者とは、健全な人間悟性の概念に到達する以前に、自分の悟性の多くの病気を直さねばならない人のことである。
 われわれが生において死に取り囲まれているとすれば、われわれはまた悟性の健康にあって狂気に取り囲まれているのである。[『数学の基礎』、第四部、53]

 アリス同様に、哲学者は狂気(ノンセンス)の無力な犠牲者である――これもまたアリス同様、哲学者が目覚めて、あるいは目を覚まされて正気に戻るまでは。

P.387
「現代意味論における『論考』の位置」野本和幸
Ⅲ 論考』の意味論
4 文の写像理論

 思想を表現する知覚可能な音声記号・文字記号は、文記号Satzzeichenと呼ばれる。文とは、可能的状態の特有の投影方法projektive Methode(3.11)を伴っている文記号のことである。

 さて、文記号は一つの事実である。文記号は、その要素―単語―が一定の仕方で互いに関係するところに成り立つからである(3.14。従って、文もまた分節されるartikuliert, gegliert(3.141,4.032)。

 また、文の写像性は、他の写像同様、写像の論理に基づく(4.015)。即ち、第一に、文記号の要素と写像される事態の要素との間に一対一対応という写像関係がなければならず、第二に、文中の各要素の特有の配置が写像される事態中の対象配列と同一構造をもち、論理形式を共有せねばならない。この二条件により、文は状況の論理的写像となる。「文はそれが描写する状況と正確に同じ割合に分割されていなければならない。両者は同じ論理的(数学的)多様性を備えていなければならない」(4.04)

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 抜き書きをし、さらに読み返して、重要な箇所を太字にする作業をしていったあと、ふと頭に浮かんだことがある。それは「ウィトゲンシュタインとは、究極の暇つぶし」ではないかということだ。

 哲学は、人類に必須のものではあるが、衣食住が足りている状態を基本的に前提とする、いうなれば暇つぶしの道具だ。そしてこれほど、終わりがなく、幾通りもの答えがあり、弁証法的に次々と発展し、時に揺り戻し、時に飛躍し、時に天才的な気づきが出現する、最高の遊び=暇つぶしはない、ということを考えた。そうした「暇つぶしの最高の道具」の一つが、ウィトゲンシュタインなのかも知れない。


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