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<閑話休題>シアワセニナリタイ

 「幸福になる」という願望は、二種類のものに分けられると思う。ひとつは、他の人から「あなたって幸福ね」と皮肉でなくて、純粋に羨ましがられる生活状態・環境に自分が恒常的にいること。もうひとつは、自分自身が「幸福だなあ」という感情に常時いられることである。

 最初に述べた生活状態・環境を即自的に幸福だと感じられるタイプの人は、幸福になるのはそんなに困難ではないと思う。なぜなら、それは他人から見て簡単に判断できるようなその人の生活状態・環境であるから、すなわち見たり聞いたりしてすぐにわかるような即物的・物質的なものだからだ。例えば、金銭や社会的地位・名誉と言った非常にわかりやすく、またある程度どうすればそうしたものを入手できるか(受験戦争を勝ち抜く、良い働き口を見つける等々)が予測できるものによって、そうしたタイプの人は幸福になれるのだ。

 ところが、人間という動物は、非常に扱いづらいものであるので、先に述べたようなタイプの容易に幸福になれる人は案外少なく、また、例え金銭・社会的地位が十分にあったとしても、すぐにそれに飽きてしまい(幸福感を味わえなくなり)、どん欲に他の幸福の対象を探し、追い求めてしまう傾向にある(例えば名誉だ。褒章をもらいたいとか、歴史に名を残したい等々)。

 つまり、人間にとって本当に入手するのが難しい幸福とは、後者の自分自身で幸福だと常に感じる心境でいることなのだ。

 しかし、この自分自身で幸福だと常に感じる心境とは、人の顔がそれぞれ異なるように個々人で異なるものであるばかりでなく、同一人物でも、ある時は幸福だと感じ、また別の時は全く同じ状況でもそう感じなくなるように、常に一定していない。

 例えば、同じみそ汁とごはんを食べるとして、これが満腹時と空腹時では当然味が異なってくることに、その具体例を見ることができる。要するに、腹が減ったときにはメシはいつも美味い。さらに、いつも違うまだ食べたことのない見た目にも美味しそうなもの(例えば、旅先などで見るその土地の特産品など)があった時も、メシは美味くなる。つまり、飢餓感にある時と新鮮な未経験なものを体験する時は、幸福になる要素の一つになるということだろう。

 これを、もっと観念的な人生に当てはめて考えてみたい。

 皆さんはどう思っておられるか知らないが、私は、いつも人生はもの凄くつまらないものだと思っている。もっと比喩的に言えば、人間という商売を何十年と続けていると、毎日毎日が同じことの繰り返しになってしまい(なんで、毎日決まった時間に起きて、歯を磨き、顔を洗って、メシを食って、服を着替えて、通勤して、仕事して、排泄をして、笑って、泣いて、動いて、疲れて、寝るのだろうか?)、いいかげん飽きてくるのだ。

 なんで、生命は、いやになったらちょっと一休みという感じで死に、そのうちに死ぬのすら飽きてきたら、また別の人生を演じる(生きる)というように、勝手気ままにできないのだろうか?コンピューターゲームのように、勝っても負けても「リセット(最初からやり直し)」できたら、最高に楽しいのではないか?

 しかし、だ。もしリセットできたとしても、同じゲームソフトを繰り返しやっていたら当然に飽きてくる。そして、例え新しいソフトに代えても、コンピューターゲームという(飽きてしまう)物質的な限界からは抜け出せないという、新たな問題が発生する。

 また、こうしたことは呼吸によく象徴されていると思う。たまに吸いっぱなし、吐きっぱなしでもいいのではないかと思うが、呼吸とは、そうした一方的なことはできずに、吸って吐くことを繰り返す生命活動だ。そう、単調な動作を繰り返すことが重要なのだ。

 ここから得られる一つの結論として、要するにこの世の全ては生活を支配するリズムである(呼吸同様の)「二拍子」に縛られており、そこを限界として、そこから脱却できず、その狭い土俵の上で永遠にもがくしかないというものが導きだされる。

 したがって、常に人が飽きることがないように、もし飽きたら次の新しいものということが期待できる場合でもあって、この非常に厳格な二拍子のリズムは、動かしがたく規定されている。また、偶然かつ瞬間的に発生することはあっても、そのリズムが自然に乱れてくれる(二拍子から抜け出す)ことは決してないのが、決定的な自然の法則なのだ。

 つまり、だ。幸福は待っていても、絶対に向こうからはやって来ない(サミュエル・ベケットが『ゴドーを待ちながら』で表現したように、「ゴドーは待たせるだけで、絶対にやって来ない」)。

 そこで、だ。能動的に生きるもしくは生きることを目指している人間としては、いったいどうすべきなのか、という疑問が出てくる。所詮は、待っていても相手(幸福)は来ないので、現状は何も変わらないのだから、自分から何かをする、何か動き出すことに選択肢が限られてくるのではないか。

 ただし、これには二つの危険を冒すことを承知しておく必要があると思う。つまり、メシの例で言えば、美味しく食べるために敢えて空腹な状態になることは、健康を害する危険があり、また未知で新鮮な食べ物にあたっても、必ずしもそれが本当に美味いものとは限らず、逆にひどく不味いものに遭遇してしまうという危険がある。

 それでも、こうした全てを承知の上で言いたいが、私はこのつまらない人生を面白くするために、また別の表現をすれば幸福になるために、何かの行動を起こさざるを得ないと思っている。その起こすべき行動は何かと言えば、既に紹介したように自分が無理に空腹(不幸)になる、安定した状態を捨てて新しい生活や環境に入って大きな違和感を覚えることではないだろうか。

 そしてまた、こうしたことが起きるようなネタ・原因を自分が作り出して(まさにトラブルメーカーだ)、さらにそれらの種を毎日せっせと播いて歩くことになるのではないか。そうすることによって、周囲の人もトラブルに巻き込むことになってしまうが、少なくとも自分自身の平穏無事な毎日は、波乱万丈の日々に変わるので、人生はつまらないものという気持ちを持つ暇もなくなり、目の前の続々と発生する諸問題の解決に追いまくられ、あるいは酷い嵐が過ぎ去るのをひたすら耐えて待つことになる。そうしたことを繰り返していくうちに、自分の生物として生きられる時間を浪費してしまい、気づいたときには墓場の中にいた、ということになるだろう(なんてせわしない人生だ)。

 このやり方を選びたいという人はまず少ないと思う。しかし、ただ一つだけ、便利な点がある。それは自分でネタ・原因を作り出しているのだから、もしも波乱万丈の生活に疲れてきたら、そのネタ作りやネタのバラマキは止めて、何もない無風状態の平穏無事な生活に一時的でも戻ることが可能なことである。ここで「可能」と書いたが、実際の人と人との関係は、信頼という条件を元に時間をかけて築かれていくので、急に「友達になってよ」と言われても、大半の人はこうしたトラブルメーカーを避けるようになっているから、自分勝手に状況を変えるのは容易なことではないという課題は残る。

 以上は危険性をはらんだ幸福になるためのひとつの解決策だが、別の面から見れば、結局平穏無事な人生と波乱万丈の人生の二拍子から抜け出せていないではないか、だから根本的な解決になっていないだろうという疑問が残る。

 しかし、波乱万丈の中身が予測のつかない要素と結果(播いたトラブルの種がどう展開するかは、播いた人には決められない)に満ちているので、数学で言えば1+1α/1α拍子というようなαという予測不可能な要素を含むものになるので、1+1という二拍子の拘束からは少しだけ踏み出せているということはできる。

 ということで、全くお勧めできないものとなってしまったが、これが今の私が考えた「シアワセニナル」やり方の一例である。・・・でも、自分では絶対にできないだろうな、と強く思っているが・・・。

面白きこともなき世を面白く
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こころなりけり
       高杉晋作、辞世の歌

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