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<閑話休題>正義の味方はなぜ走るのか?―走るスポーツと走らないスポーツとの比較―

 20世紀に入ってから、コミックや映画などに描かれた正義の味方は、みな常に走っている場面が多い。なぜ走っているのかと考えた場合、正義を実践するために叩きのめさなくてはならない悪は、いつも逃げ足が速くしかも逃げ切っているからだ。たとえば、ゆっくりと逃げる悪や、逃げないですぐに捕まる悪は存在しないし、また走れない悪や走れない正義も同時にキャラクターとして造形できない。

 こうした世界では、常に肉体的に最高の時期である青年期の文化となるので、歳とともに衰える肉体を実感したときは、正義も悪も表舞台から退場することになる(だからといって、盛大な引退式があるわけではないが)。

 こうした肉体の稼働性と連動したシステムの起源は、正義の味方を主人公とするコミックが登場した20世紀初頭(しかもアメリカ)という時代を考えるならば、産業革命以降の大量生産を美徳とした消費社会の人の身体の在り方を、忠実に反映していると思う。つまり、高度な消費社会では、人の身体性も大量消費される対象であり、そのため消費しつくされた身体―つまり、老化して機能が低減した身体―は、一種のゴミとして忌避される。その一方、大量消費可能な若々しい身体は、その優れた対象として賞賛される。その具体的なイメージとして、正義の味方や悪の親玉という身体機能に優れたキャラクターが登場した(例えば、スパイ映画のヒーローや悪の帝王は、みな一流のスポーツ選手並みの身体機能を持っている)。

 時代を遡って、産業革命以前、いや古代の正義の味方といえる代表である宗教指導者を検証すれば、どの指導者も優れた頭脳の働きや魔力といった超自然的な力を持っているが、身体的に高度な機能を持っていることはない(身体的に優秀なのは、宗教指導者ではなく、その下で活動する英雄たちである)。

 例えば、ギリシア・ローマ神話などの英雄は、ヘラクレスなどに代表されるように優れた身体機能を持ったキャラクターで、現在の正義の味方の原型ともいえるが、彼らは指導者ではないし、なによりも正義を実践するために存在していない(戦う対象は悪に似ているが、魔物や怪物という異世界の存在である)。また古代の物語の主人公として、人々が想像しえないような冒険や旅を経験した主人公として物語られる。聴き手(聴衆)は、自分たちの代わりに非日常を経験した英雄を通して、物語の臨場感を得ている。いわば、物語の語り手と聴き手の間をつなぐ存在(私は、こうした存在を狂言回し(道化師)とかチチェローネ(水先案内人)と称している。)だ。

 これに対して宗教指導者は生まれた瞬間から高い徳と経験を積んでいることはないので、おおよそ高齢であり、高齢であることの特権として多くの人生における経験値を積んでおり、そのために過去に身体的損傷を受けた場合もある。したがって、仮に身体的に優れていたとしても走らず、歩くのが常体である上に、極端な事例では歩行困難なため椅子に座っている場合もある。

 現代において、こうした走らずに歩く文化=哲学を体現したのは、インドのガンジーだろう。彼は、あらゆる意味で走ることは決してせず、常に歩いていた。また、政治的示威運動として歩くこと=大衆による行進を実践している。また、ガンジーの思想は、現代の大量消費社会の文化から、古代の文化に帰ることを提唱しており、そうしたことも自らの生活で実践した。

 そうしたことが影響した部分がどれほどあったのかはよくわからないが、インド圏では近代スポーツに共通する走ることを極力控えたスポーツであるクリケットが、最も人気のあるスポーツとなっている。クリケットは、イギリスの貴族があまりある時間をいかに浪費するかを目的として発生したもので、一試合を実施するのに一週間かかるので普通であり、また試合中はランチを摂る他、午前と午後にお茶の時間もある。これは、走らないスポーツの代表と言える。

 以前、こうした記述をして、クリケットの前近代的な要素を批判した。しかし、その後インド圏という巨大な人口を持つ経済的理由を背景に、クリケットが利益を生み出すコンテンツであることが判明した結果、従来のルールを変えて、近代的な短い試合時間やルールに変更し、よりスピーディにしたスポーツとして、現在大きな人気を得るとともに莫大な利益を上げるものとなっている。・・・でも、相対的には、やっぱりクリケットは走らないスポーツではないかと思っている。そして、インドでクリケットが走らないスポーツであり続けることは、大量消費社会に反旗を翻したガンジーの思想を受け継いでいると言ったら、言い過ぎになるのかも知れない。

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