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<説話物語>『熊の皮を着た男』(前編)

 この説話は、広くヨーロッパで伝えられ、特に北欧諸国やドイツで好まれている。しかし、それを東欧のルーマニアの物語として紹介したい。なお、ルーマニア語で熊はウルスというが、ルーマニアのビールの銘柄としても使われているくらい、国民的な人気がある。

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 その昔ルーマニアは、ワラキアとモルドバの二つの国に分かれていたが、アッラーの名のもとに東から押し寄せる強力なオスマントルコの軍勢と戦う、キリスト教ヨーロッパの最前線でもあった。そのため、平和なときには小麦や大麦を育てている朴訥とした農民たちの中の何人かは、イエスのために戦う兵士として駆り出されることが多かった。それは、キリスト教の神に仕える僕としての立派な使命でもあった。

 イスラム対キリストの激しい戦いが行われていた最前線から少し離れたところにある、強力なハプスブルグ家が支配するオーストリア・ハンガリー帝国との国境近くにあるアラドという街の郊外には、名もない小さな村があった。その中のさらに小さな農家に生まれたミハイは、成年に達した後、キリスト者としての使命を果たすべく、住み馴れた故郷を遠く離れて神の兵士として戦った。そうした生活を四年ほど過ごした後、軽微な負傷をしたこともあり、ミハイは除隊となって故郷に戻ってきた。久しぶりに戻る故郷は、ミハイにとって天国にも比べられる楽しい場所になるはずであったが、薄汚れた兵士の姿のミハイが家の戸を開けたとき、父母そして幼い兄弟たちは皆、なぜか顔を背けていた。

 ミハイが「なぜ?」と考えているうちに、その答えはすぐに見つかった。ミハイを他人のように見ている家族のその奥から、ミハイより少し年上に見えるが教養はあまりなさそうな男が、のそのそと戸口まで出て来て、ミハイを睨みながらこう言ったのだ。
「俺がこの家の主だが、あんたはだれだ?」
「私はミハイといって、この家の長男だ」
「ああ、そうか。わかった。しかし、この家にはもうお前のいる場所はない」
「なぜだ?私はここで生まれて育った。そして、ほら、あそこに両親と兄弟たちがいるだろう?」
「じゃあ、教えてやろう。あんたが戦争にいっているうちに、ここのオヤジが博打に負けてね、俺がそのカタとしてこの家と住んでいる連中を、みんなもらったのさ」
 ミハイは、驚きと悲しみとがない混ざった表情をしながら、言葉がでなかった。男は、そうしたミハイの顔を、どこか楽しそうに見ながら言葉を続けた。
「だから、この家は俺の家で、そしてここにいる連中は、みんな俺の奴隷ってわけだ。でも、あんたの妹は、奴隷でもちょっとばかり見てくれがいいから、俺の女房にしてやったがね」
 そう男は言うと、ミハイの返事を待つまでもなく、一方的にドアを閉めてしまった。

 ミハイは、呆然とするのが精一杯だった。そして、行くあてもなく我が家近くの自分たちの農地だったところを歩きだした。そこには小さな川があって、幼いころからその小川の水を汲んで我が家に運んでいた。ミハイは、そのほとりに座り込んで、しばらく川の流れを眺めていた。

 すると、誰かがこの小川に近づいてくる足音を聞いた。その足音は、ミハイと同じ軍靴の音だったので、ミハイにはすぐに誰かがわかった。それは、同じころに除隊したすぐ近くに住んでいた友達のフローリンだった。フローリンはミハイと違って自分の家で歓迎され、今頃は母親の手料理を楽しんでいるはずだったが、その暗い足音からは、どうやらそうではないようだった。

 フローリンは、まるでそこが自分の指定席でもあるように、自然とミハイの隣に座りこんだ。そして、哀しみを込めた声で、こう話し出した。
「俺の家には、家族がいなかったよ。・・・空き家さ。そして、村長からの小さな手紙があった」
「なんて書いてあったんだ?」とミハイは、顔を上げずにフローリンに聞いた。
「俺の家族は、一年前のペストで皆死んだそうだよ。そして、家だけは残っているけど、そのうち誰か別の人のものになるらしい」
 ミハイは、フローリンの絶望的な声を聞きながら、自分のことを伝えた。
「俺の家も同じようなものさ。さっき入ろうとしたら、オヤジが博打で負けて知らない男のものになっていた。それだけじゃない、家族は奴隷になり、妹のイリーナは男の女房にされていた」
 フローリンは、ミハイの伝える内容を聞きながら、黙って涙を流した。そして、振り絞るように声を出した。
「俺たちは、なんのために兵士になり、戦争をしてきたんだ?イエスのために戦って来たのじゃないか?そうやって命まで捧げてきたのに、なんでこんな酷い仕打ちをされなきゃならないんだ!」
 フローリンが思わず大声を出し、ミハイも大きく頷いたとき、二人の後ろに突然黒い人影が現れた。まるで、さっきまで二人の後ろで話し声を聞いていたような、そんな親し気たっぷりな声色で、その男は話しかけてきた。
「おやおや、お二人とも大変なことで、・・・そしてイエス様も、なんて酷いことをするのでしょう。・・・私は、お二人に同情しますよ」
 男からそう話しかけられたミハイとフローリンは、少しばかり驚いたが、もっと驚いたことは、その男の姿が、悪魔だったからだ。しかし、この悪魔―ベルゼビュート―は、そんなことは承知の上ということで、さらに丁寧に言葉を続けた。
「おっと、この私の姿に驚いてはいけませんよ。私は、あなた方が良く知っている悪魔ですけど、同じ悪魔でも、あなたがたを助けにきた悪魔なんですよ。そこのところをよくご理解ください」
 ミハイとフローリンは、悪魔の声を聞きながら、十字を切っていたが、それぐらいのことでは、ベルゼビュートに対抗することはできない。彼は、悪魔の中でも階級が上で、多少の祈りぐらいであれば、軽く受け流すことができたのだ。それは、ベルゼビュートがこれまで多くの魂を奪って来た、その功績によることも大きい。

 ベルゼビュートは、二人に対してさらに優しい声音で話を続けた。
「そんなことしないでくださいよ、私はあなた方をとって食おうとしているのじゃありませんから。・・・私がしたいのは、お困りのあなた方と取引をしたいだけなんです」
 ミハイとフローリンは、ベルゼビュートの「取引」という言葉に少しばかり反応した。それは、この二人が兵士としては経験と積んでいるかも知れないが、社会に出て商売をするようなことは何も知らなかったことが関係していた。
 ベルゼビュートは、そうした二人の心の動きを察知して、さらに話を続けた。
「こうしたらいかがですか、ということなんですよ。私があなた方と契約するものは、二つに分かれます。一つ目は、私の手下になってほしいのです。でも、手下になってくれたら、あなた方の服にあるそのポケット、そこに手を入れたらいつでも欲しいだけの金貨を取り出せるようにしてあげましょう。・・・試しにちょっとやってみますか?お二人の右側にあるポケットに手を入れてくださいな」
 ベルゼビュートのその言葉につられるまま、二人がポケットに手を入れると、そこからは一枚の本物の金貨が出てきた。二人は、その金貨が正真正銘の本物であることを確かめると、おもわず二人で顔を見合わせ、そしてベルゼビュートの方を見た。
「ほらっ、私の言うことに嘘はないでしょう。そして、その金貨があれば、これからずっと幸せに暮らせますよ、うふふ」
 そのベルゼビュートの言葉が最後まで終わらないうちに、フローリンが反応した。
「それで、もう一つの契約はなんだ?」
 ベルゼビュートは、フローリンからの問いかけに、少しばかり残念そうな顔をしながら、ぼそぼそと話し出した。

「それは、あなた方にはきっと耐えられないと思います。もし失敗したら、あなた方の魂をすぐ私がいただくことになるからです。それは、七年間ずっと、ほらここにある、この熊の皮、これを被りながら、身体を洗わず、髪をとかすことをせず、動物のように汚い姿で暮らすことなんです。そして、もし七年間経ったら、私が来て身体を洗ってあげましょう。そして、新しい服もあげましょう。でも、金貨はありません。あなたが魂を取られないで済むだけです。これは、あまりお勧めはしませんけどね・・・」
 ミハイとフローリンの二人は、しばらくじっと考えていたが、先に答えを出したのは、家族が皆死に絶えて一人きりになったフローリンだった。
「おれは、この先一人で生きて行かねばならない、・・・それに、もう天国へ行くことなんてとっくに諦めている、・・・金が欲しい。しかも沢山の金が欲しい。贅沢で豪華な暮らしもしたい。・・・だから、悪魔の仲間になるよ・・・」
 ベルゼビュートは、フローリンが話すのを嬉しそうに聞いていたが、一言だけ訂正した。
「さっき、仲間って言ったけど、仲間じゃなくて、私の手下ですからね、そこのところは間違えないでくださいよ。そうでないと契約が・・・」

 ベルゼビュートがそこまで言い終わらないうちに、フローリンが、つかつかとベルゼビュートの前にやってきて、兵士にしては柔らかそうな手を黙って差し出した。ベルゼビュートは、その手を見ると、黒い剛毛と長く伸びた鉤爪が目立つ手で握りしめ、「では、契約成立!」と宣言した。
 その瞬間、フローリンが大きな黒い煙に包まれた後、風が煙を吹き払った後に見えたのは、ぼろ切れをまとって立ち上がった山羊の姿だった。するとベルゼビュートは、「おっといけねえ、ヘンなものを見せちまったぜ」といいながら、その人のような山羊に向かって、ぶつぶつと短い呪文を唱えた。呪文の言葉が風に舞った直後、人のような山羊は普通の人の姿、それもどこからどうみても青年貴族の姿になっていた。しかし、一か所だけ人と違っていることに気づく者はまずいなかっただろう。フローリンの左手の薬指には、三本の青い入れ墨が刻まれていた。

 そうしたフローリンの変わりようをあぜんとして見ていたミハイは、未だ自分の答えを決めかねていたようだったが、時間が経つにつれてその顔はだんだんと厳しい表情になっていった。そして、空から照りつけていた太陽が次第に傾いていき、黒い雲に覆われ出したころ、ミハイは静かに口を開いた。
「七年間、熊の皮を、着る・・・」
 すると、ベルゼビュートは、ちょっと残念そうな顔を見せた後、「さあ、どこまでやれるかな?まあ、それはこれからのお楽しみですな」と言いながら、さきほどの悪魔の手とは違う人間と同じ姿をした右手を差し出して、ミハイの右手を握りしめた。ミハイは、ベルゼビュートの冷たい手から、汗が流れているのを感じたが、そのまま黙って手を握っていた。

 すると、ミハイのさっきまでの兵士の姿が、粗末な麻布をまとったまるで修道僧のような質素な姿に変わっただけでなく、頭から足のつま先まで熊の皮で包まれていた。そして、いつのまにか髪の毛は長く伸び、薄汚れ、頭巾の下で絡まっている。指先を見ると、爪が黒く伸びて汚れている。そして自分でも感じるくらい、身体中から動物の匂いが漂って来た。何か、自分が人間であることを忘れてしまうような、そんな風袋と体臭になっていた。

<以上までが前編です。続きは後編で。>


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