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<説話物語>『熊の皮を着た男』(後編)

<前編からの続きです。>

 そうして、ミハイは七年間を過ごすことになった。こんな姿では村で暮らすことはできないから、ベルゼビュートが森の中に用意した丸太小屋に籠って、森にある木の実を取ってきたり狩で捕まえた動物を食べたりして、ひっそりと生活を続けた。ヨーロッパの森は大きくて暗い。特にルーマニアの森は、昔から魔物が棲んでいると信じられてきたので、そこに人が入ってくることは滅多になかった。ごくたまに、迷い羊を探しに来る牧童か、あるいは猟師が獲物を追って迷い込んでくるときしか、人に会うことはなかった。そして、そうして森に迷い込んだ人たちは、ミハイの姿を見ると、人のような姿をした熊だと勘違いし、あれは森の精霊あるいは悪魔の化身に違いないと言って、あわててその場から逃げ去るのだった。

 ところがある日のこと、ミハイがいる小屋の近くで、数発の銃声が聞こえた。森の中では銃声が聞こえてくることはよくあったが、その時の銃声は小屋のかなり近くで聞こえてきたので、ミハイは不審に思って、小屋の外を見回した。すると、「ううっ」という声が聞こえた。あきらかに何か身体に異常を感じている人間の声だ。ミハイは、軍隊で生活し、また実戦をしてきたので、負傷した兵士の姿を数多く見ていた。そのため、苦しむ声の感じや傷具合からは、その兵士が死にそうなのか、あるいは手当すれば助かるのかを、だいたいわかるようになっていた。

 その時ミハイが聞いた声は、ミハイの経験からは重い傷を負っているが、生命力は保っているように聞こえた。それで、もう一度ゆっくりと小屋の周囲を歩き回ったところ、そこに一人の年取った猟師が倒れているのが見えた。さらに悪いことには、その猟師の近くに二匹の狼がそっと近寄っているのを、ミハイの熊のような嗅覚が認めた。ミハイは何も考えずに走った。走った先には、銃を構えた猟師がいたが、その銃の筒先が自分に向いているのか、狼に向いているのかがわからないうちに、ミハイは猟師に近づいた一匹の狼の首筋を両手で思い切り掴み、そして投げ捨てた。それを見ていた残りの狼は、ミハイを熊そのものと見たのだろうか、低くうなった後、足をひきずって逃げていく投げ捨てられた狼とともに、どこかへ消えて行った。

 その光景を、激しく出血する傷を手で押さえながら見ていた猟師は、ミハイの姿を凝視した後、その熊の皮の下にある人間の顔に気づいた。そして、ひどく安心したような表情を見せながら、ミハイに向かって「ありがたい!」と声をかけた。ミハイは、倒れた猟師に近づき、そっと身体を抱き起して、「近くに私の小屋がありますから、そこで手当しましょう」と言った。それを聞いたとたん、猟師はそれまで踏ん張っていた気力が一気に萎えてしまったのか、すぐに気を失った。彼の押さえていた左手の下にある腹からは、血が激しく出ているのが見えた。ミハイは、自分の被っている頭巾を引き裂き、その傷に巻き付けた。これで、少しの間は大丈夫だろう。

 ミハイは、その猟師―名前はチプリアンといった―を小屋に入れ、悪魔からもらっていた薬を使って傷の手当てをした。そして粗末なものながら、栄養のあるものを食べさせて介抱した。そうして数日が経ったころ、チプリアンは歩けるようになったので、小屋から自分の家へ帰ることになった。その時、チプリアンは、世話になったミハイに対して、なにかお礼がしたいので家まで付き添って欲しいと願い出た。ミハイは、長く人里から離れた生活をしていたので、いきなり大勢の人がいるところに出かけるのは、かなり心配だったが、チプリアンの熱意に押されて、しぶしぶ出かけることにした。

 チプリアンが数日振りに村に戻ってきたとき、その姿を見た村人たちは「やあ、チプリアン、しばらく見なかったけど、何かあったのかね?」と次々に尋ねてきた。するとチプリアンは、「ああ、森の中で猪にやられてね、危ないところだったけど、この人に助けてもらったんだよ」と嬉しそうに伝えた。その言葉を聞いた村人は、チプリアンに付き添っている、悪臭を放つまるで熊そのものにしか見えない男の姿を見て、思わず黙ってしまい、さっさと逃げて行くのだった。

 そうして村の中を歩いていくと、やがてチプリアンの質素な家に着いた。しかし、家の戸口で出迎えたチプリアンの家族もまた、村人と同じ反応だった。チプリアンは、ミハイと一緒に夕飯を食べようと思ったが、三人いる娘の長女コリーナと次女マダリナの二人は、「怖い!」、「臭い!」と叫びながら、慌てて家の奥に逃げて行った。妻のルチアナは、チプリアンが無事戻ってきたことを喜んでいたが、同時にミハイの姿を震えながら見ていた。その姿を見たチプリアンは、ミハイを家の中に入れて一緒に食事をすることは諦めた。しかし、命の恩人であるミハイを家に誘っておいて、そのまま何もせずに帰すわけにはいかないので、
「もう夜になるから、これから森へ戻るのは危険だ。しかし、妻や娘たちがああいう態度なんで、悪いけど家の中では泊まらせられない。しかし、馬小屋なら寝る場所があるから、そこで休んでほしい」
 と丁寧に伝えた。もとより、ミハイは普通の人間の生活をするつもりはさらさらなかったから、チプリアンの申し出に対して、大いに感謝を伝えて、まっすぐ馬小屋に向かった。

 夜になった。チプリアンの家では夕食の時間だ。ミハイは、馬の世話をしながら、馬小屋で休んでいた。すると、誰かが小屋に近づいてくる足音がした。ふと見ると、さっき紹介されたチプリアンの三女エミリアだった。彼女は、ミハイのために夕食を持ってきてくれたのだ。夕食といっても、貧しい猟師の家だ。じゃがいものスープと固いパンだけだったが、それに家の裏にあるブドウで作ったワインが添えてあった。それだけでもミハイには十分なごちそうだ。ミハイはエミリアから喜んで受け取ると、すぐに手に取って食べ始めた。

 すると、もう用はないはずのエミリアが、ミハイの傍に坐ってミハイの食べるのをじっと見ていた。その姿が気になったミハイは、エミリアに聞いてみた。
「君は、私の姿が怖くないのかい?それに、身体中は汚れているし、髪もこんなにごわごわで臭い」
 まだ少女の年から抜けきっていないエミリアは、興味深そうにミハイを眺めて、「そんなことは気にしないわ。だって、馬や羊も身体を洗わないし、おんなじ匂いがするから」と言った。そして、ふたたびミハイの顔を飽きずに眺めていた。
 ミハイは、さらにエミリアに聞いてみた。
「私になにか興味があるのかい?」
 そう言われてエミリアは、少し顔を赤くして、小さな声で言った。
「あなたの洗った顔を見てみたいな。きっととても綺麗だと思うから」
 エミリアは真剣な顔をしている。
 ミハイは、そんな言葉に嬉しくなって、無言でエミリアの手を握っていた。とても温かい血が流れているのを感じた。
 次の朝、ミハイは森の小屋に戻るつもりだったが、朝、馬小屋があまりにも綺麗に掃除されている上に、馬がピカピカの毛並みになってとても機嫌が良いのを見て、チプリアンは、さらに七日ばかりここにいて欲しいとミハイに伝えた。また、チプリアンの身体は元に戻ってはいたが、いきなりいつも通りに仕事ができる状態ではなかった上に、長く家を空けていたことから、いろいろとやることが溜まっていた。それで、特に一番手のかかる馬の世話をしてもらうために、ミハイに森へ戻るのを先延ばししてもらうことにしたのだ。

 ミハイが、そうして馬小屋で寝起きしながら、馬の世話をしている数日の間、エミリアは朝・昼・夜とかかさずミハイにご飯を届けにきた。そして、その度にミハイと長く話し込んでいたが、いつのまにか二人は愛し合うようになっていた。七日目の朝、ついにミハイが森に帰る朝がやってきた。ミハイは、自分が左手にしている母からもらった指輪をナイフで二つに割り、その一つをエミリアに渡しながら、こう言った。
「これから三年後に私は、この村に戻ってくる。それまでは、森で暮らさなくてはならない。その理由は、聞かないで欲しい。でも、三年後にまたこの家にやってくるとき、私は今の姿とは変わっているはずだ。もしかするとわからないかも知れない。その時まで待っていてくれるかい?」
 エミリアは、ミハイの青い目を見ながらその言葉をじっと聞いていた。そして、
「はい!」と嬉しそうに答えた。
 ミハイはその言葉を聞くと、すぐに続けた。
「その時に私だとわかるために、この二つに割った指輪の片方を渡しておく。私はこの指輪の残りの片方を差し出すから、君の持っている残りとぴったり合えば、それは私だという証明になるはずだ」
 ミハイはここまで言うと、指輪の片割れを持ったエミリアの手を強く握りながら、「それじゃあ、三年後に!」と言いながら、まるで熊が走り去るように、朝日が差し込む森に向かって行った。エミリアは、ミハイの姿が見えなくなっても、しばらく家の外で森の方角を見ていた。その後、森の方から動物の叫ぶような声が聞こえてくるたびに、「きっと、あの人に違いない」とつぶやきながら、エミリアは森の方を見つめるのが習慣になっていた。

 それから三年経ったある日、それはまたミハイがベルゼビュートとの契約から七年が経った日でもあった。ミハイは、その日が来るのを辛抱強く待っていた。その間に、チプリアンの娘という誘惑もあったが、それでも身体を洗うことはしなかった。他にもベルゼビュートが、わざと若い魔女たちを森の小屋にいかせて、ミハイを誘惑したこともあった。次は、女を使うのがだめならというわけで、ベルゼビュートに指示された別の魔女は、汚泥が入った桶をミハイの身体にぶちまけることもした。しかしミハイは、長い間森を歩いているうちに動物と同じよう姿になっていた上に、雨が降ったときでも森で木の実や野草を探したため、わざわざ身体を洗うこともなく、その汚泥は雨で自然に消えていった。こうしてミハイは、ベルゼビュートとの契約を見事に為し遂げたのだった。

 そのミハイが待ち構えている森の丸太小屋に、ベルゼビュートはやってきた。ミハイに対して着飾る必要などないのだが、ベルゼビュートは小奇麗な、まるで城主に仕える小姓のような姿をしていた。そして、ミハイにこう言った。
「いやあ、俺様としたことが、とんだ読み違いをしちまったな。・・・しかし、契約は契約だ。俺も悪魔のなかでもちょっとは名を知られた名士だ。契約を意味なく破ったと言われては、名誉にかかわるからな。・・・ほら、俺様が綺麗に洗ってやるよ」
 そうベルゼビュートが言った後、森の棲む動物たちがやってきて、一斉に小姓の姿に代わり、それぞれが、水が入った桶、スポンジ、清潔なタオル、丈夫な櫛、ハサミ、剃刀を持って、ミハイの身体と髪を洗いだした。三十分ほど経ったころ、ミハイの身体は軍隊から戻ってきたときのようにピカピカになった。むしろ、除隊した時よりも、森の中での清廉な生活を七年間もしてきたせいか、身体全体が引き締まり、人相もまるで聖者のようになっていた。さらに、ミハイの左手中指にあった契約の入れ墨も消えていた。その姿を見たベルゼビュートは、おもわず後ずさりしたが、それでも自分のやるべきことの仕上げにかかった。

 ベルゼビュートが「ピュー」と口笛を吹いた。すると、森の中から一頭の鹿がやってきて、その背中には立派な貴族の服装が一式載っていた。ベルゼビュートは、さらに口笛を「ピュー、ピュー」と吹くと、さっきまでミハイの身体を洗っていた小姓たちが、今度はミハイに服を着せ、靴を履かせた。その姿を見たベルゼビュートは、ミハイの身体全体からにじみ出る威厳のようなものに少しばかり気おされてしまったが、そこは悪魔らしいセリフを言いのけた。
「ふふふ、これが女だったら、シンデレラのようにお城の舞踏会に行かれるな。でも、カボチャの馬車はないので、自分で歩いていけよ」

 その言葉を聞いたミハイは、まるで服装が来ている人の人格まで変えたかのように、厳かにはっきりとした言葉をベルゼビュートに投げかけた。
「これで契約は終わった。さあ、悪魔はさっさと帰ってくれ!」
 ベルゼビュートは、そんな言葉が出ることを承知していた。それで、小姓に化けた動物たちとさっさと森の中へ行こうとしたのだが、その時ふと思い出したように、ミハイに話しかけた。
「ところで、同じように七年経ったフローリンの奴のことを知りたくないですかい?」
 ミハイは、「どうなったか想像はつくが、せっかくだから教えてくれ」とベルゼビュートに言った。
「七年間俺様の奴隷としてしっかり働いてもらったが、奴もそれ相応に贅沢三昧の生活をして、旨いものをたらふく食べ、女遊びを沢山し、さらに多くの人を苦しめ、時には殺し、そうやって楽しく暮らしたので、その因果応報ということで、もちろん地獄堕ちさ。もっとも、悪業の限りを尽くしたのでその価値はだいぶ落ちてしまったが、魂はしっかりとこの俺様がいただいた、まいどありい!」
 そう捨てゼリフを言うと、ベルゼビュートは森の中へ動物たちとともに消えていった。

 今や貴公子のようになったミハイは、村に向かった。村に入ると、熊の皮を着ていたときには、まるで悪魔が来たように逃げて行った村人たちが、今度はミハイの姿を尊敬のまなざしで見つめ、口々に「どこのお城にいる王子様だろう?」と話し合っていた。もちろん、年頃の娘たちは、皆ミハイの噂を聞いて一目見ようと近寄ってきて、ミハイの歩いているところの周りには、ちょっとした人の輪ができていた。

 でも、ミハイの行くべき場所は決まっていた。チプリアンの家である。しかも、家の中ではない、昔世話をした馬のいる馬小屋だ。そして、ミハイが会いたいのは、馬だけではない、そこにいるエミリアだった。

 ミハイは、大勢の若い女に取り巻かれながら、チプリアンの家に着いた。あれから三年は立っていたが、チプリアンは変わらずにいた。三人の娘たちは大人に成長して、皆それぞれに美しくなっていた。チプリアンは、最初ミハイのことがわからなかったが、ミハイが自分から名乗ると、「ああ、あの時の熊の皮を着ていた、森の隠者でしたか!」と言いながら、家の中に招いた。そして、その後ろから、長女コリーナと次女マダリナの二人が、父の身体を押しのけて出て来て、
「ミハイさんですよね、覚えていますよ、あの時は父を助けてくれてありがとうございました。本当は一緒に家の中で夕食を食べたかったのですけど、父がだめだというので、ご一緒できませんでした。でも、私たちがお礼したい気持ちはおわかりだったでしょう?」
とニコニコしながら、ミハイの身体に触りながら早口でまくし立てた。

 するとミハイは、「いや、昔と同じに馬小屋でないとだめだ。そこに、エミリアが待っているから」と言いながら、おもむろに馬小屋に向かった。ミハイを追ってきたコリーナとマダリナの二人は、すぐにミハイを捕まえて、「私たちのどちらかと結婚する約束をしたじゃないですか?」と嘘をついてきた。ミハイは「私は、エミリアと結婚する約束をした。その証拠に、この指輪の半分を渡してある」といいながら、左手にある指輪を見せた。

 その次の瞬間、コリーナとマダリナの二人は、あわててエミリアのいる馬小屋へ駆け足で向かった。そして、そこで待っているエミリアの姿を見つけると、二人で争うようにしてエミリアの左手にある指輪を奪いにいった。しかし、その時、馬小屋の床が運悪く濡れており、二人は激しく転んでしまった。そこへ、さらに運悪いことに馬の蹄があった。二人は、間もなく死んだ。その顛末を、馬小屋の陰からそっと見ている者がいたが、エミリアもミハイも気が付かなかった。

 ミハイは、自分の指輪とエミリアの指輪とを合わせた。割れた二つの指輪がぴったりとかさなり、元の一つの指輪になった。それを見ていた周囲の人たちは、大きな拍手で二人を称えた。すると、さっきの顛末を馬小屋の陰から見ていた者が、ひょっこりと顔を出してきた。ベルゼビュートだった。ベルゼビュートは、抱き合っている二人の傍まで近づくと、こうミハイにささやいた。
「俺様は二つの魂をもらったが、お前はひとつの魂を取ったな!」。


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