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<芸術一般>マンレイと写真について(『ユリイカ』1982年9月号「マンレイ特集」から)

 1982年の雑誌『ユリイカ』はマンレイの特集をしたが、文芸誌では日本で初めてマンレイを特集したと説明されている。私は、シュールレアリスムに関心があったので、たまたまこの時に『ユリイカ』を買い求めたが、当時の日本でマンレイとは、シュールレアリスムの本流から外れた(主に肖像)写真家というイメージが強かったように思う。

ユリイカ 1982年9月号

 一方、私のマンレイの写真で当時知っていたのは、この有名な「バイオリンダングル」(よく「アングルのバイオリン」と訳されているが、このアングルは画家の名前だと私は勘違いしていた。このフランス語原文を直訳したこの「バイオリンダングル」か、または正確に訳して「バイオリンの観点」とすべきだと思う)だった。

ヴィオロン・ダングル

 この女性の背中の形象とバイオリンの形象とを、比喩として軽やかかつ直截に表現した作品は、芸術家が苦労の末に作り上げたものというよりも、ちょっとふざけた発想で簡単に写真を撮ったものというイメージが先行しやすい。そのため、芸術作品としては、軽く扱われていたように思うし、マンレイ自身に対してもそうした扱いだったのだと思う。

右は、メレット・オッペンハイムがモデルを務めた「蔽われた好色」

 しかし、この『ユリイカ』の特集を読むと、マンレイの持つ軽やかさと洒脱な発想は、そのまま「遊び」としての「芸術」本来の機能を想起させるものであり、またそうすることによって、芸術と商業との間に横たわる溝をうまく綱渡りできた、器用な芸術家だったのではないかと思う。

 「ユリイカ」が特集をしたのは1980年代だったが、それからさらに40年経過して、マンレイが活躍した1920年代のパリから100年経った今の日本において、マンレイの面白さ(敢えて「価値」という用語を使用したくない)が、ようやく大衆の美術鑑賞イメージに浸透してきたようで、あちこちでマンレイに関する展覧会が開催され、それなりに人を集めていた。

 100年という時間を必要とした一方、現在の大衆に迎合された理由について考えてみると、マンレイが写真をメインの表現手段にしたことの「強さ」が背景にあると感じる。つまり、これがマルセル・デュシャンのような絵画やオブジェであれば、たとえそれがパブロ・ピカソやマルク・シャガール、あるいはアンリ・マティスやルネ・マグリットのように、大衆に迎合される要素を持っていたとしても、やはり印象派絵画のような大衆が理解しやすい親近性はそこにはなく、逆に鑑賞者にいくばくかの「考えさせる」要素が前面に出ているため、結果として作品と鑑賞者との間にある「距離感」が生じてしまう。別の言葉で言えば、近寄りがたさ、あるいは難しさということだ。

 ところが、マンレイの写真は、もちろんそこに芸術創作という大きな力が作用しているのだが、絵画作品とは違って、写されたものがそのまま人が見る、あるいは見えるように提示されているため、鑑賞者は前衛絵画のような「距離感」を感じることはない。さらにこうした「距離感」だけでなく、「時間的距離」=100年前という古ささえ、越えてしまうものがある。つまり、写真は常に生々しく感じる上に、絵の具のように表面が古びることはない。

 これは写真の持つ不思議な力だと思う。例えば、歴史的人物の肖像ひとつ取ってみても、それが精巧な絵画であってさえ、絵画として残っているものにはそこに時間的な大きな距離を感じる結果、「古い」、「現在とは大きく異なる」というイメージを持ってしまう。しかし、これが写真として残されている場合は、その「現在の人と少ししか違わない」というヴィジュアルな印象から、「同じ人間」・「近所で見かけるような普通の人」という親近感を得やすくなる。

 写真は、創作方法が絵画や彫刻と比べて容易(道具も時間もより簡便だ)なことから、二流芸術のように見られがちだ。だが、絵画や彫刻と異なる、その「歴史的時間の経過を無効化する作用」という特別な力を持っていることを、改めて強調したい。かつて写真が発明された当時、19世紀の人々が写真を撮影されると「魂を盗まれるのではないか」と心配した「作用」は、実はこうしたこと(そこに、自分の不滅の分身がコピーされる)だったのかも知れない。

 なお、写真と芸術の関係については、以前瀧口修造の『白と黒の断章』に関する書評で少し触れているので、以下のリンクも参照願いたい。

 ところで、このマンレイという名前は、絶対にペンネームの類だと思っていたが、『ユリイカ』誌上では、マンレイMan Rayの本名は不明となっていた。また出自もロシア系アメリカ人とだけあった。しかし、改めてウィキペディアで検索すると、本名はエマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudnitsky、父親はユダヤ系ウクライナ人、母親はユダヤ系ベラルーシ人で、アメリカのフィラデルフィアで生まれたアメリカ国籍者となっている(関係ないが、21世紀のインターネットの力は、本当に凄いと思う。大図書館にあるような知識の宝庫を誰でも入手できるのだから)。

 また私は、その名前とパリで活躍したことからフランス人だとずっと思っていたのだが、実は「パリのアメリカ人」の一人だったことに、ちょっと感慨を深くした。また、マンレイが、20世紀前半に活躍した芸術家及び思想家の系列につらなる、東欧あるいはロシアのユダヤ人だったことに、「やっぱり、そうなのか」という思いを強くした。
 
 マンレイは、ロシア帝国から逃れてきたユダヤ人としてアメリカに住み、その後パリに移住して、本名と異なる名前を使って芸術(同時に商業写真)の世界で生活した。そこからは、あらゆる意味で文字通りの「故郷喪失者(デラシネ)」、「仮面の下に自己を隠す居場所のない者」という宿命を、直接的及び間接的に受け止めかつ心身に浸み込ませて必死に生きてきた軌跡が見えてくる。そうしたことの全てが、「マンレイ」というシンボル(記号)に集約・象徴されているのだろう。だから、マンレイは芸術家の名前であると同時に、そうしたシンボルとしても存在している。
 
最後に雑談的な話題をいくつか紹介する。
 
 『ユリイカ』に紹介されたマンレイの作品では、やはりこのオブジェ「贈り物」は素晴らしい。

  また、ココ・シャネルの肖像写真が二つ掲載されていて、写真というのは撮り方次第で印象がこうも異なるのかと実感させられた。

ココ・シャネル

  そして、この「フェルー通り」という風景写真は、自分のオブジェをリヤカーで運ぶマンレイ自身の姿らしいが、このジョルジョ・デ・キリコ作品のようなイメージが、私はとても好きだ。

フェルー通り

 それから、『ユリイカ』で対談している池田満寿夫が、「アメリカ人の女は性格がきつい」ということを、繰り返し主張しているのが、無性におかしかった(ちなみに池田の最初の妻はアメリカ人)。


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