見出し画像

<芸術一般>文学作品の評価は形式で決まる

  わかっている人には当たり前のことだと思うが、文学作品の評価は、書かれた内容(何を書いたか)ではなく、書かれた形式(どう書いたか)によって決まる。

  例えば、芥川賞受賞者が発表されると、マスコミは受賞作品について「xxxxのことを書いたのが評価された」云々と内容を紹介する。しかし、その書かれた内容が、どんなに特別な視点からのものであっても、またどんなに特別な(誰も知らないような)内容であっても、それが最大の受賞理由にはならない。なぜなら、文学作品だからだ。

 文学作品の受賞理由は、「何を書いたか」ではなく「どう書いたか」という形式に求められる。対象となる文学作品の内容が、人々があまり知らない世界や事実を紹介し、あるいは大衆に上手く周知するものであったとしても、その内容そのものを評価することはない。その書かれ方=形式に対して評価した結果が受賞理由となる。

 もしそうでない「書かれた内容」に対して評価したのであれば、それは文学作品である必要はなくなってしまい(文学的表現は不要となる)、日々の新聞報道の記事となんら変わりないものとなってしまうだろう。そして芥川賞選考委員は、連日洪水のように発表される新聞記事や同種の文章を読み込み、その中から芥川賞受賞作を選出することになってしまう。

 しかし、マスコミが芥川賞受賞作品の(文学としての)形式について、その受賞理由を説明することはしないし、またできないものだ。なぜなら、そうしたニュースの受け手は、ニュースの文章に対して「文学」性を求めていないからであり、また仮にその「形式」を事細かく説明しても、それを理解するのは「文学」の研究者やこれを生業にしている人たちに限定されてしまうからだ。そもそも一般大衆にとって、文学的技巧や感性など(つまりは「文体」だ)あふれる文章は、せいぜい文芸欄で日曜に暇つぶしに読む対象でしかない。

 こうした(文学的な)「虚構」が前提となっているのにも関わらず、ニュースの受け手の一部は、「芥川賞受賞」と聞いただけでその作品に高い関心を抱き(どんなに優れて、どんなに面白い小説だろうと期待する)、書店でその本を購入したりする。しかし、読了した後の感想は、大半が「面白くなかった」、「良くわからない」といったものになるのではないだろうか。

 一方、ニュースの受け手である一般大衆が、「面白かった」、「読みやすかった」といった感想を言うような本は、文学賞受賞作品よりも、いわゆるベストセラーになっているようなあまり文学的志向性がないような作品だろう。そうした作品の「形式」は、文学的には高く評価されないかも知れないが、読み物としての「形式」は秀逸であるからだ。

 以上、ここまで書くと、「では、対象者が少なく限定されるのであれば、文学的作品が存在する理由はないし、芥川賞なんて身内の褒め合いみたいなものだから不要なのではないでしょうか?」、「読み物としての形式が優れたものだけを、小説として流通させればジュ分ではないでしょうか?」と質問してくる人がいる。こうした質問に対して私は、こう答えるしかない。

 「なぜ、文学作品が存在する理由があるのか?それは、小説を含めた文学が芸術だからだ」

(注:「では、芸術とは何か?」という質問に対する答えは、膨大なものになってしまうので、ここでは割愛する。そのうちに気が向いたら、または何かの機会があれば、この答えを書くことがあると思うので、それを参考にしていただきたい。・・・というより、図書館や書店を除けば、「芸術とは何か?」を的確に答えてくれる良書がたくさんある。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?