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<閑話休題>表現することの選択肢について

(はじめに)
 私は、エッセイとして書いているつもりだが、どこか論文めいた内容になってしまうのは、私の本意ではない。私が書きたいことは、まず書くこと=話すこととしての表現は、行動すること=社会参加と同列だということなのです。

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1.「何をやったか」


 大学時代、「重要なことは、何を言ったかではない、何をやったかだ」と良く聞かされていた。それは、今流行りの言葉で言えば「言うだけ番長」という、行動を伴わない無責任な言動を戒める意味であったと思う。また、それ以上に狭い大学構内で議論しているのではなく、実際に反政府デモ等の政治に参加することを重視したものだったと思う。

 この言葉の最初は、当時日本で流行していたフランスの哲学者兼政治家ジャンポール・サルトルが、「行動する哲学者」として社会参加=政治参加したことに起因している。つまり、哲学者が自身の哲学を言語で論ずるだけでなく、それを行動に移してこそ、真の哲学足りえるという理解に則っている。

 また当時は、この哲学者という肩書はそのまま思想家ということと理解されていた。そのため、サルトルの行動は、「世界とは何か?」、「生きるとは何か?」といった哲学的な根本命題を研究する学者(正しい意味での哲学者)よりも、政治や経済を論じている思想家を厳密に対象にしたものであり、またそうすることでサルトルがやったこととの論理的整合性が取れると思う。しかし、(今から40年も昔の)当時は、とにかく思想と関係づけられたものは全て、机上の空論ではなく実践が伴うことが必然であるように捉えられていた。そして、行動が伴うか否かということをもって、個人の思想(哲学や芸術であっても)は評価が決まると信じられていた。まるで、イエズス会のように、まるでスターリン主義のように。

 これは今となっては、まったくの学生らしい短絡な暴論であり、また当時の「社会参加」というのは、すなわちサルトルがドコール政権に対して行ったような反政府運動であり、もっと言えばマルクス主義思想及び共産主義革命を実現するためのデモ等に参加することのように理解されていた。これはもう、思想とか哲学とかいう領域ではなく、そのまま単なる政治運動、もっと言えば封建主義時代と何ら変わらない「王座を奪い合う血腥い暴力の連鎖」に与することを慫慂するものでしかなかった。ようするに、無知な学生を先導するための、たんなる政治的なアジテーションだったということだ。

 これがまったくの暴論・極論であったことは、日本の作家の一例を見るだけで簡単に理解できる。石原慎太郎という人は、戦後世代を代表するセンセーショナルな作家として社会に出て、その名声をもって政治家になり、最後は東京都知事として終わった。文字通りに、作家という机上の仕事だけでなく、政治家になるという具体的な政治参加をした。しかし、石原慎太郎の作家としての評価は、けっして政治家としての活動のみをもってなされるものではなく、純粋に彼の文学作品をもって評価されるべきものだ。つまり、石原慎太郎が言ったこと(文学作品)を評価することと、彼が行ったこと(政治活動)とは、まったく別の次元であり、それらは同一の次元で評価される対象にはなりえない。

 これは作家のみならず、例えば歌手はその歌(歌唱力)で、俳優は演技で、建築家は設計した建築物で、芸術家はその作品で、それぞれ評価されるべきであり、その私生活や人格で評価されるべきではない。まちがっても、そうした創造者の政治姿勢や政治参加の度合いによって、創作したものの絶対的な評価が定まることはない(ナチズムの協力者であった、マルティン・ハイデッカーの哲学(存在論)は、(政治理論である)ナチズムとは分けて研究すべきであり、同様に(興行として)ナチズムに協力した、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが指揮した名曲は、その演奏自体で評価すべきだ。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」も、(後付けで政治的な意味が付与された)スペイン内戦とは分けて、作品それだけで鑑賞すべきだ)。

 だから当時流行していた学生運動や学生の共産主義革命ごっこが社会的に否定された今こそ、私は強く主張したい。作品と作者とは別物(別次元)であるのだ。作品は作品自体で評価されねばならないし、作者の政治姿勢や人格や私生活とはまったく無縁だ。

 そして、全ての作品が世に出た後は、時間の経過とともに作者から離れていく。そのため、作者の意図とは全く無関係に、作品に勝手な意味づけをする鑑賞者は多岐にわたるだろうが、そこに政治的や社会的な意味づけをすることは、哲学や芸術にとっては無意味なことでしかない。これは、スポーツの世界に人間ドラマを持ち込むことにも通じる。スポーツの結果や評価は、選手や関係者の私生活から判断するものではない。グランドやスタジアムで目にしたものだけを対象にすべきだ。

 だからこそ、表現すること(創造すること)は、ただ言葉のみで行うことで十分なのであり、発言内容(表現内容)に即した現実の行動は、どうでもよいまったく関係のないことなのだ。例えば、シュールレアリストが、表現したとおりに実生活を行ったとしたら、単なる精神異常者になるだけだ。また、同じシュールレアリストが、規則正しい生活を送り、町内会やPTA活動をやっても良いし、毎日飲んだくれて散財していても少しも不思議ではないのだ。「それ」と「これ」とは、全くの別次元なのだから。

2.「何を書いたか、描いたか」


 今朝、たまたま芥川賞受賞のニュースとインタビューをTVでやっていて、ふと思ったことがある。それは、こうしたニュースでのメディアの扱いは、受賞作家がどのように表現したかということよりも、どういう題材を作品化したということに注目して報道する、ということだ。

 例えば、若者の古い世代に対する反感を扱った(ピラミッドから、「今どきの若い者は!」というパピルスが見つかっている・・・)、現在の複雑化した家族関係を扱った(60年前のフランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』を思い出した・・・)、あるいは貧困や就職難などの社会問題を扱った(貧困や就職難がない時代は、過去にあっただろうか・・・)等々。

 つまり、作品の表現方法(独特の文体、脚韻を想起させる語法、プロットの面白さ等々)についてニュースで解説しても、視聴者にはまったく響かないし、そもそも何を言っているのか専門家でしかわからないから、こうした紹介は絶対にしないし、また出来ない。

 そのため、「どう書いたか」ということはすっ飛ばして「何を書いたか」だけを紹介し、そうした題材を描いたことで芥川賞等を受賞したと、通り一辺倒に紹介する。そして、視聴者は「そうか、そうした問題を題材にしたから、受賞したのか」と妙に納得したりする。

 しかし、文学作品では、「何を書いたか(題材にしたか)」ということは、二義的でしかない。いわゆるプロレタリア文学等の分野では、社会的に抑圧されている人々の姿を一般に訴えるために敢えて題材にしたという評価がされるが、こうした文学が世間に周知されていない題材を知らせるという役目は、今はとっくに終えている。

 そうした役目は、いちいち小説を読むというしちめんどうくさいことなどせずに、インターネットの世界で、現実の映像と当事者の声とともに一瞬で拡散されている。「一般に訴える」なんていう役割は、文学の世界からはとうの昔に終わっているのだ。

 そもそも、文学に限らず、絵画芸術の世界でもそうだが、「何を書いたか」、「何を描いたか」という題材を問うことは、芸術概念からは二義的な意味でしかない。文学では、「どう書いたか」、絵画では「どう描いたか」が、芸術として問われるべき対象である。

 例えば、有名なレンブラントの「夜警」は、それまで宗教画が中心であったヨーロッパ絵画の世界で、一般市民(夜警)を描いた影響力ある作品として、歴史的に解説される。しかし、実はそんなことはどうでも良いのだ。

 だいたい、宗教画は題材としてだめで、一般市民を描くことの方が優れているなんて理屈はどこにも存在しない(あるのは、宗教改革や共産主義の論理だけだ)。ようするに、宗教画でも一般市民の姿でも、さらに風景画でさえも、題材をどう切り取って(構図)、どういう色彩(白黒の陰影を含む)で、どういう絵筆のタッチで描いたか、という点こそが、絵画を評価する視点になる。

 いや題材こそが芸術の価値の基本だというのであれば、例えば幼稚園児が描いた良い題材とされるものを、優れた芸術作品だというだろうか、とその人に問いたい。優れた芸術作品と認識されるためには、優れたテクニックと優れたセンスという「どう描いたか」が前提となる。

 文学(小説)も同様だ。題材さえ良いのであれば、小学生の作文すら芥川賞候補になってもおかしくないことになってしまう(実際、高校生や大学生が受賞しているが・・・)。そこには、大前提としての「どう書いたか」という技術とセンスが必須だ。

 だから、どうってことない題材を描いた作品が芥川賞になってもおかしくないし、極論すれば、日常茶飯事を日記として記録したものさえ、その技術とセンスが優れていれば、良い文学作品となる。

 しかし、こうした意見を述べても、現実は意地悪くて世知辛い。簡単に言えば、「売れるか、売れないか」という経済原理である。そして、読者は芸術として優れた作品に対価を払うのではない。自分たちの余暇を慰めてくれる娯楽に対して、金銭を消費するという、どうにもならない現実がある(日本でクラシック音楽が商売にならないのと一緒だ)。

 そのため、「どう書いたか」、「どう描いたか」よりも、「何を書いたか」、「何を描いたか」が優先されてしまうという、不条理が存在している。こんな不条理を認めることは絶対にしたくない私は、どうにかしてこれを破ることこそが、本来の芸術家としての使命ではないか、と今強く思っている。

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