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<閑話休題>バンクシーのこと,そして芸術家の同時代者であること

1.バンクシーを,なぜ私は嫌いか

「ただの上手な落書き」でしかないバンクシーの絵画は,その匿名性とマスコミによるセンセーショナルな報道によって,一躍売れっ子のメジャーな芸術作品となっている。

芸術作品の価値を数値で表現することは,そもそも無理難題な話だが,現代の拝金主義を参考にすれば,その作品の購入価格が優劣を決める物差しとなっている。マスコミも,芸術作品を紹介するときには,「時価xxxxx万円」というように,その高値であることを中心に報道する。この観点から見れば,バンクシーは,今やゴッホ,フェルメール,ピカソらに並ぶ「高額な作品を創る芸術家」となっている。

しかし,バンクシーのスキルや政治的メッセージを込めた表現内容,表現方法については,「落書き」ということ以外,何ら芸術的に新しいものはない。もし芸術の価値が,我々の日常世界を見る目を,別の観点から見たり,考えたりすることの契機として,直感的に知らせてくれるものとすれば,―そして,これらは,ゴッホ,フェルメール,ピカソらの,過去の偉大な芸術家に皆共通するものだが―それは,バンクシーにはない。

そして,ここに私がバンクシーを評価できない理由があると思う。僕が仮に金持ちであっても,バンクシーの作品を購入し,家の壁や自前の美術館で展示したいとは,とうてい思えないのだ。


2.偉大な芸術家の理解者,保護者であることとは?

現代は,バンクシーのように作品を売ることによって,金持ちの贅沢な生活をする芸術家が多くいるが,つい100年前までは,そうした芸術家は存在できなかった。芸術家は,貴族や金持ちの商人などをパトロンとして寄生することにより,創作活動を維持してきたのだ(たとえば,音楽の世界では,モーツァルトやショパン)。

そして,ルネサンス時代のレオナルドやミケランジェロのように,有力なパトロンに生涯恵まれた芸術家は,むしろ少数派でしかなく,現在偉大な芸術家とみられている者のうち,その多くは貧しい,不運な生活を送っている。たとえば,ゴッホがそうだが,彼は画商であった兄のテオによって生活を支えられていた。またテオが,唯一のゴッホの価値を認める存在でもあった。

日本では,俳人松尾芭蕉の例を見てみると,芭蕉は指導料(点料)を弟子から取らなかったため,清貧の生涯を送ったが,それでも,杉山杉風(さんぷう)という良いパトロン兼弟子兼理解者に恵まれた。また,杉風以外にも,芭蕉の芸術を理解する多くの趣味人にも恵まれることができた。これは,日本史上の僥倖のひとつだと思う。

現代の我々は,テオや杉風らに対しては,偉大な芸術家の作品を残してくれたことに,大いに感謝せねばならないと,強く思う。

そして,こうした偉大な芸術家と同時代に生き,かつ彼らを支援できる環境にある時,その人の役割は,人類の歴史でとても重要で大きなものになると思う。なぜなら,人類にとって貴重な才能を,営利的な俗世間の下劣さに消えさせてしまうことは,実にもったいないことだからだ。その価値は,再び稼げば良い金には換算されない,本当に貴重なものなのだ。

この優れた芸術を生み出す者を支援することは,経済的には大変かも知れないが,むしろそうした偉大な芸術家の身近に居られたことの喜びや素晴らしさは,何事にも代えがたい無限の価値があると思う。そして,その対価として,テオや杉風の名は,ゴッホや芭蕉とともに,永遠に歴史に刻まれることになったのだ。

私は,身近にそうした才能をある人に,不幸にも巡り会ったこともないし,まして支援できるほどの経済的余裕もない(自分と家族が食うだけで精一杯です)が,世の中に埋もれている優れた才能には,常時目と耳を研ぎ澄ませていたいと思う。また,そうしないことは,儚い人生で,実にもったいないことだと思うのだ。

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