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銭湯採集④ 受付について

 子供の頃の銭湯のイメージは、番台でお金を払うことから始まった。子供の頃、我が地元にあった銭湯「浜の湯」もそうした昔ながらの銭湯であった。


 父に連れられてきた私は、父が番台にお金を払うのを下から見ている。子供の私にとって、番台の高さは遥かに大きく、番台に座るご主人や女将さんの姿もあまり見えないくらいだったように思う。風呂上がりのポカリスエットを買うべく、父にお金をもらって番台に払いにいく時、かなり背伸びをして番台にお金を出すのであった。
 地元の銭湯は番台であったため、少し離れた設備の豪華な改装された銭湯に行った時に出会うフロント式の受付は、いつもと違った特別感を感じた。そこの銭湯「永福湯」は、サウナ、露天風呂などといった浴槽設備もそうであるが、フロント前のロビーにはソファとテレビがつき、お風呂上がりにのんびりできるという点も含め、「浜の湯」にはない豪華な銭湯であるという印象を、子供心にも植え付けたものであった。どちらの銭湯も現在は廃業してしまったが、皮肉なことにも後世にまで残ったのは「浜の湯」の方で、「永福湯」の方が先に廃業したのは運命の悪戯とでも言おうか。



 調査範囲銭湯191軒(2021.4現在)中、番台式は50軒、フロント式は140軒と、フロント式がはるかに優勢である。とはいえ古い銭湯には、未だに番台が残り続けているという点では、番台式の数も健闘していると言えよう。
 ちなみに残る1軒は、4月末で廃業した王子の「加賀浴場」。ここは異例中の異例で、ロビー側にフロント、脱衣所側に番台を持つ両刀使いである。

番台とは

 番台は、その名の通り、風呂屋の"番"をする人が乗る"台"である。男女湯双方の脱衣所と浴室を見渡し、盗人や病人など、異常がないかを見守るのが銭湯主人の義務であった。古い銭湯に行くと、番台の目の前、男女湯の仕切り壁の上部に非常用のボタンとベルを鳴らすメガホンがついているのを見かけることがある。緊急事態があれば、番台にいる主人がそのボタンを押し、ベルが鳴ることでお客に対して緊急を知らせることができるのだろう。


 名前の通り、銭湯の全てを見渡すことができるのだが、強いて番台のデメリットを挙げるとすると、男女湯が玄関部分で別れてしまう点である。そのため異性同士で銭湯を訪れると、風呂上がりの待ち合わせ場所は銭湯の玄関先ということになる。風呂上がりに片方が待たされ、体が冷え切ってしまった描写が歌われるかぐや姫の「神田川」の歌詞などは、まさに番台だからこそ生まれた情景といえる。個人的にはそんなことなどせず、出る時間を決めるなりすれば、そんな寒い思いをする必要もないのにとナンセンスなことを思ってしまうが、70年代にフォークギターを鳴らしていた世代は、その寒さとそこから生まれる暖かさも含めての銭湯入浴だったのだろう。


 時間を決めずとも、どちらかが待つことがない場合も作ることはできる。それは、脱衣所なり浴室なりで、壁の向こう側に向かって「もう上がるよー」などと声がけをすれば良いのである。私は恥ずかしくてなかなかやったことがないが、こどものとも社の絵本「おふろやさん」においては、親子連れで訪れて母子間で壁を隔てて掛け声をするシーンが描かれている。これは親子連れであるが、声掛けは夫婦やカップル(当時の言い方ならアベックか)などでも、案外日常的な風景だったのかもしれない。


フロント化への流れ


 そんな番台風景に変化が訪れるのは、80年代頃からである。一般家庭における内風呂が普及し、銭湯利用者は減少。生き残りを図る上で求められたのが、地域のコミュニティの役割としての銭湯であった。

 1982年、東京都内では当時の鈴木俊一都政の元、「コミュニティセントウ」と呼ばれる銭湯の建築が推進された。
 衛生施設としての銭湯に、地域住民の触れ合いの場を設けるというこの計画では、玄関を入った場所に広めのロビーを設け、休憩や集会施設としての役割を設けた。こうした銭湯では番台構造では都合が悪いため、必然的に受付はフロント型となった。平成元年の経済白書によると、「コミュニティセントウ」は都内で6軒が経営されているという。私が訪問した中では、武蔵境の「境南浴場」と喜多見の「丸正浴場」に「コミュニティセントウ」の看板があったが、その他の銭湯はどこにあるのだろう(そもそもまだ営業中なのだろうか)。


 上記のように地域コミュニティ創生のためにフロント化されたのは事実であるが、一方で女性客対策という一面もある。80年代ごろから、その他公衆浴場である「健康ランド」、現在でいうところの「スーパー銭湯」業態が増加し、お風呂のレジャー化に拍車がかかった。内風呂が当たり前になったからこそ、家にはない風呂を楽しんでもらうことをコンセプトに、これら施設は作られた。そのため、一般公衆浴場にはない楽しさをウリにしていたので、内風呂があったとしても、非日常を楽しむため多くの客が訪れた。当然、こうした施設ではより多くの客を捌くため、ホテルのようなフロント型が主流である。
 こうした健康ランド業態に慣れた客、特に女性客にとって、一般公衆浴場の番台はどのように見られたか。番台には女将さんも座れば、男性主人も座る。男性主人側からすれば日常風景なので何の感情も湧かないのだろうが、一見の女性客からすればやはり抵抗があるのだろう。こうした女性客への対策として、当時潮流が生まれていた健康ランド業態に漸近して、フロント型にしたというのも一説として考えられる。

地域傾向 〜 東京銭湯

 現在の銭湯はどのようになっているか、まず東京で見てみると、番台:24、フロント:112。圧倒的にフロント型優勢となっている。

 先に述べた都内の銭湯の指針があったこともあり、母屋が築年古めの建物であっても、手前側にロビースペースを増築、そこにフロントと休憩スペースを設けている銭湯も多い(例:下高井戸「月見湯温泉」等)。


 また建物はそのままに、男女湯脱衣所の真ん中にロビーを設け、新たにコンパクトなフロントを設けた銭湯も散見される(例:田無「松の湯」等)。昭和末期以降に改築・建築された銭湯のほとんどは、フロント型で元々作られていることから、番台の形跡もない銭湯も多い。


 一方で、70年代までに建てられたビル型銭湯は、番台式のままであったり、フロント化改良した跡が見られたりする銭湯もある(例:幡ヶ谷「仙石湯」等)。こうした銭湯からは、フロント化の潮流がいつ頃生まれたのかを推し量る目安にもなる。

地域傾向 〜 京都銭湯

 続いて京都銭湯を見てみると、番台:14、フロント:6。一概にもいえないが、番台型優勢である。

 この理由は、敷地に余裕が見られない京都の事情があるとも言える。東京のように母屋の手前側にロビースペースを増築しようにも、うなぎの寝床状態の京都市内では容易でない。多くの建物が往来に面して目一杯に建てられているので、増築スペースがそもそも見当たらないのである。後院通りに斜めに面している、大宮「田原湯」だけ、例外的に増築したフロント部分があった。


 東京銭湯同様、建物そのままにフロントを設ける銭湯もある。その場合は、玄関周りと男女湯脱衣所の手前側スペースをリノベし、玄関すぐにフロントを設ける銭湯が多い(例:五条楽園「梅湯」等)。男女湯脱衣所の真ん中にロビーを設ける東京型に対して、横に小さく縦に長い京都銭湯らしい構造と言えよう。


 また番台であっても、東京銭湯とは異なる点も挙げられる。それは、番台が高座になっておらず平台という点である。主人が見下ろす位置にいる東京型番台と異なり、床面に椅子、または立って接客するのが京都スタイルである。そして女湯側には、番台と脱衣所を仕切るカーテンなどが設けられている。たとえ番台に女将ではなく男性主人がいたとしても、仕切りがあるため女性でも安心して脱衣できる造りになっている。普通の銭湯で若年層の女性客をよく見かけたのも、こうした点が女性にとっての安心感を与えているためであろう。

まとめ


 番台型、フロント型、いずれも特徴があるが、番台式が残る石神井「たつの湯」のご主人は、今後も番台型を続けていきたいという。


 番台からは、脱衣所、浴室の異常がないかを一眼で見ることができるのはもちろん、遠目に見える浴槽から溢れ出てくるお湯を見て、今の湯温や薪の炊き具合も見極めることもできるという。ご主人の言葉からは、当然であるがプロの意識を感じ取れた。この銭湯は、東京型の高座型番台、そして女湯と番台の仕切りも当然ない。だが、地元のおばあさんから幼児を連れた母子まで、何の躊躇いもなくこの銭湯を利用している。これは長年営業されてきた、この銭湯の安心感が与えているものなのだろう。

 最後に余談であるが、子供の頃から憧れていた番台に、いつか乗ってみたいと思っていながら、残念なことに現在までその機会に浴していない。いつか、この高座に乗れる日を楽しみにしている。


それでは良き湯時間-yujikan-を。

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