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小説「国道九五千」

 もうかれこれ小一時間は車の中にいる。コーヒーを飲み、煙草を吸う。――さあ、どうしようか――、とずっとそんな調子だ。昼過ぎの駅前、人の姿はなく静かだった。
 京都は園部という片田舎の駅に私はいた。何年振りだろうか、昔は電車に揺られて大阪からよく遊びに来ていた。高校からの友達に会いに。その友達はここ、園部に住んでいた。私は大阪に住んでいた。年に数回だが会って酒を飲んだ。思い出は寒かったことと、私達は若かったということ。もうあれから十年だ。約、十年か。出会いが曖昧ならば、別れも曖昧でどの記憶が正しいのか、私にはもう分からない。
 ――そうだ、海を見よう――
 ひょんな思い付きで私は大阪から車を走らせて北に向かった。目的地はどこでもよかった。私はただ日本海が見たかったのだ。ちょうど連休だったことのついでに有給を使いとりあえず家を出てしまった。京都を越えたあたりでこの園部の名がふと目に飛び込んできた。私は思い出に釣られたのか、昔の顔なじみの様に駅まで来てしまったのだ。
 日本海は、私の実家から歩いて五分のところにあった。ヨチヨチ歩きの頃から高校を卒業するまでずっと見てきた。音を聞いてきた。朝も昼も真夜中もずっと私の町は日本海と共に生きてきた。朝日は山から、夕日は海に。荒れたり凪いだり、遊び場であり、危険な場所だったり。これが当たり前だった。私の生まれは島根県江津市、江の川の流れる海沿いの町だった。
 私は車の中で考えていた。あいつの家はどこだったかな、あのハンバーガーショップはまだあるのかな。いや、そんな事ではない。海が見たいのならもう少し行けば海だろう。しかし、私は見てしまったのだ。ここ園部で、あの青い道路標識を。
『国道9 ROUTE』
 高校の時は沢山友達がいた。卒業して大阪に来てから二人、三人、次第に距離が離れていった。私はあまり交友関係が得意ではなかったのかも知れないが、それでも友達の事は好きだった。ずっと仲好しでいられると思っていた。今でも会えるものなら会ってみたいとも思う。いや、これは嘘だ。私は嘘つきだ。会える機会は幾度もあったはずだ。ただ私は会わなかったのだ。
 島根県に住んでいれば誰しもが9号線を知っている。この道路は私の町にも通っていた。通学路であり、通勤路であり、真夜中のドライブコースだった。雨の降っている小学校の帰り道はそれだけで楽しかった。傘の水を弾く音、合羽の中の蒸し暑さ、雨靴で飛び込んだ水溜り。蛙の鳴き声が夜を招いた。カレーの匂い。お風呂場の笑い声。野球中継のせいで見られなかった番組。川の字で寝ていた子供たち。もう私はそこにはいなかった。
 まさか京都のこの町まであの道が続いているのが信じられなかった。海が見たいのならばもう少し行けば見られるだろう。しかし、私の見たい海なのか? この道をまっすぐ行けばあの町に続いている。あの海がそこにはあるんだ。どうしようか、私はまだ車の中で迷っていた。
 園部の駅からは数人のいかにも学生のなりをした若者が降りてきた。私は負い目を感じるかのように車のエンジンを入れてその場を後にした。
 ――ええい、ままよ。なんとかなるさ――
 時間はたんまりあった。私は9号線に車を乗せて西に向かうことにした。
「なあ、毎年ここに来て、これからの抱負でもなんでもいいから叫ぼうで」
「おういいで、んじゃまずお前から叫べよ」
「あー、……バンドでデビューしちゃるー!」
 昔はよく海に叫んでいた。私はあの時に何て言ったのかな? 
 兵庫県に入る前に雨が降ってきた。ラジオからはビリー・ジョエルのピアノマンが流れていた。車を近くのコンビニに停めて電話を掛けた。
 私の生まれは島根だが、私の両親は鳥取生まれだった。子供が巣立ち、会社を定年したのをきっかけに私の両親は鳥取は米子に家を移した。親からみたら帰ったのかも知れない。ただ私は寂しかった。帰る家はもう生まれた町に無いんだと思うと未練が残った。行こうと思えばいつでも行けると思うと、余計に近寄りがたい場所になっていった。
「うん、元気してるよ。うん、いま休みなんよ。うん、近々そっちに行くかも知れんから」
「もしもし、すみませんが今夜なんですけど、部屋開いてますか? はい、一人です」
 兵庫の山路は孤独だった。雨が止み、そしてまた降った。谷を下り、山を登った。9号線の横にはいつも海が並んで走っていると思っていた私はいささか狐につままれたかのような不安にも襲われた。ラジオを消して、ただひたすら道の先を眺めていた。
 ――約束、覚えてる?――
 『新温泉町』という標識が見えてきた。私は温泉が好きだ。昔はよく親父に連れられて有福温泉というひなびた湯に浸かっていた。
 有福温泉は私の家から車で三十分の山の中にあった。湯が三つあり、その中の一つ「御前湯」が私達の行きつけだった。その温泉町の地元に住む悪友ともよく湯に浸かっていた。あいつとは沢山の悪いことをした。ある夜、警察に追われてからはもう私達の中では暗黙の他人が割り込んできた。その他人は壁を作った。見えない壁なのか、見えていたのか。そいつは私だったのか、あいつだったのか。
 夜の八時頃、私は鳥取に着いた。今日はここで一泊。ビジネスホテルで食べるコンビニの弁当と飲みきれなかった缶ビール。私の短い旅はまだ始まったばかりだった。いや、旅は終わっていたのかも知れない。
「なあ、俺とお前は、ずっと友達け?」
「……おう、ずっとずっと友達だけえ」
 私達は大人になった。仕事も、住むところも遠く離れて、会う事も話す事もなくなってしまった。
 山陰の朝は曇っていた。灰色の空。山陰らしいと言えばらしいその雲は遥か遠くの大陸まで続いている。ロビーを後にして私はふと気が付いた。
 ――海だ!
 白い波が砕けながら、緩やかに広がっていた。日本海だ。昨夜は気が付かなかったが、ここはもう海沿いだったのだ。水面が昔食べたゼリーのように粘着を持っていた。なんて広いんだろう。青が映える私の目は緑色。広大で雄大で、ああ、私は海が見たいなんてなんて馬鹿な事を……。うっすらと滲む雲と海の交り合ったさもしたり顔で私を迎えた大自然は、しかしここは鳥取だ。私の見てきた海と何が違うのか? 何も、何も変わってなんかなかったんだ。
「……ただいま」
「お帰りなさい。疲れたでしょ? もうすぐご飯だから……」
 きっと心の中ではお邪魔しますと言うんだろうな、と思いながら私は海をちらちら見ながら鳥取を走った。運転中の他所見は危険だからと前置きを置いて、本当は初恋の人に見せる恥じらいの為か、私は海を直視できなかった。たかだか海じゃないか、そう、たかだか日本海だ。
 あれほど見たかった海がこんなにも呆気なく姿を現したことが私は少し不満だったのか、それとも夏の終わりのせいか、私は今、大山に寄り道をしていた。山と言えば、三瓶山か大山だろう、山陰の山も私は好きだった。ソフトクリームを買おうか迷ったが、なにしろ男一人だ。缶コーヒーでも充分ではないか。私は一人なんだから。
 正直なところ時間があまりあまっていた。選択肢は二つ。今日中に島根に入るのか、一度実家に寄って一晩を越すのか。実家に寄るのは、やはり気が重い気がする。気の問題だが、どうせ帰るのならば全てを終わらしてからのほうが良いような気がした。ならば今日中に島根に行くか、いや、これも嫌だった。行くのならば、きちんと行きたい。つまり朝一から行きたかったのだ。
 電話を掛けよう。まずはそこからだ。
「久しぶり! ちゃんと生きとったかー? 今度はいつ帰ってくるん?」
「いままだ大阪にいよるんか? 今度遊び行くから泊まらしてやー」
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません」
 意外だが私は皆生温泉に入ったことがなかった。湯の中で、サウナの中で私は思い出にふけっていた。学校へ続く坂道、校庭のポプラの樹、ブランコ、ジャングルジムはあったっけ? 給食の匂い、優しかった先生、怖かった先生、校舎から見える海。半ズボンから学生服に。少し大人になった気がした改造ズボン、裏ボタン、怖い先輩、美しい先輩、可愛い後輩、汗臭い更衣室、跳び箱、数学、野球部のマネージャー、殴る先生、煙草、お祭りの飲酒、校舎から見えた海。みんな別々になった制服、あいつはブレザーを崩して着ていた。初めての恋人、ケンカ、夜中のバカ騒ぎ、落ちこぼれ、イジメ、挫折、裏切り、将来への不安、進学、就職、原付、失恋、一生の友達、一瞬の友達、親の気持ち、そして校舎から見えた日本海。
 私は思い出に泣いていた。不可能だと分かっているから、絶対に戻れないと分かっているから私はただ悲しかった。今夜は皆生温泉に一泊。昔の自分と校歌でも歌おうか、子守唄にしては、少ししょっぱいか、我が母校。
「もしもし、おはよう。あのさ、急なんだけど、今日そっちに帰ろうと思ってるんだけど、いいかな?」
 米子のコンビニから電話を掛けた。母は戸惑っているのか、喜んでいるのか、「いいから帰ってきんさい」と言ってくれた。行こうと思えば、多分あと十分もかからないだろう。
「ご飯はいるの? 何か食べたいもんでもある?」
 急な事だったので、なにか変な誤解をされたのかも知れないが、私は嬉しかった。帰ってきたんだな、とそう思った。
 9号線の旅はもう終盤だ。大根島を越えて、私は、私と一緒に故郷に着いた。松江の宍道湖、出雲大社、新しいバイパス道路、世界登録された銀山、そして山、海、一級河川、江津の町は、そう、私のふる里だ。
 時刻は正午。
 町は、何も変わっちゃいなかった。さびれた空気、陰の町、雲が消えて、日が照りだした。
「全く、昔と変わらんなあ」
 独り言にも花が咲いた。ただ、良く見ると変っていた。コンビニ、メガネ屋さん、潰れたラーメン屋、子供の姿、江の川の色、海の香り。
 ――中学校、か。
 初めて9号線を曲がった。海沿いの産業道路。
「あっ!」
 古い校舎だった。私が通っていた時にはすでに相当の年季が入っていた。時代は変わる。私はもう子供ではないんだ。
 校舎はもうなかった。跡地には、見覚えのないぴかぴかの建物が初々しく坐っていた。
『江津中学校』
 徐行しながら、私はそれを見た。
 徐行しながら、実家に、昔の家に、借家だった我が家に。
「あっ!」
 知らないおばさんが庭にいた。まじまじとお互いに目が会った。そうだよ、僕んちだよ? えっ? 知ってるよ。もう僕んちじゃないんでしょ? うん、知ってるからさ。
 ――毎年ここで叫ぼうって、約束したじゃないか――
 有福温泉。期待は裏切らなかった。何も変わっていない山路、川、家並み、廃校、悪友の実家。犬がわんわん吠えていた。私は見知らぬ顔で通り過ぎた。私は嘘つきだ。
「最近はの、御前湯じゃないんだ。その下にある、やよい湯に入りよるんだ。湯はぬるいが、じーっくり浸かってると、気持ちがええんだ」
 御前湯は湯が熱かった。私は熱い湯に浸かる親父が好きだった。だから私も好きになったのだ。そんな親父が、ぬるい湯を好きになるなんて、私はびっくりだった。実家から大阪に出てきて少しの事だった。
 さつき湯に入ったのは初めてだった。狭く汚い、と思った。番台から細い木造りの階段を下り、つきあたりに簡素な脱衣籠と棚が置いてあった。その下にはカビてそうなスノコ板が置いてあった。脱衣所はなく、私は風呂場と階段の境界で服を脱いだ。引き戸を開けると、狭い湯船が揺れていた。鏡が三つ、カランからは水がぽたぽたこぼれていた。家風呂のちょっと広いバージョンか、または合宿所でありそうな風呂場だった。
 ――確かに、ぬるい。
 ここに、以前親父は浸かっていた。今は私が浸かっている。もしかしたら旧友も浸かっていたのかも知れない。じーっくりと、汗がつーっと出てきたら、確かに気持ちええもんだった。
 窓の外から、夕焼け小焼けの赤とんぼが聞こえてきた。昔っから夕方の五時になるとこの曲が流れていたが、まさか今でも流れていたと驚いた。私はそれに合わせて口笛を吹いた。ふと、思い出したかのように私は急いで風呂から上がり、着替えて車に乗った。
「日本海だ。夕日が沈む日本海だ」
 そこの灯台から見る景色は格別だった。親父と一緒に、彼女と一緒に、友達と一緒によく高台に登って海を眺めた。写真を撮った。とにかく海、海、海。崖の下から波の音。斜め後ろには私の町、山、高速道路。
「あそこってさ、自殺の名所なんだってさ」
 私が着いた時には、もう真暗だった。車の中、私は煙草を吸った。
 夜は田舎の若者にとって、もっとも楽しい時間だった。親の目も、学校の目も、世間の目も届かない。車は、ただのファミコンの様なゲームだった。夜中にこそこそ集って、酒を飲んで、ドライブして。
 私はもう酒は止めた。煙草も吸わない。そう決めてから、何の意味があるのか分からずまた繰り返した。いつも同じだった。
 江津市を出て行く。多分、もう来ないだろうと、そう思った。でもまた来るかも知れない。それは分からないことだ。
 私は、結局海には行かなかった。誰にも会わなかった。でもべつにもう良かったんだ。今からでも遅くはないんだから。私は電話を取り出し、ラジオの音量をほんの少しだけ上げると、思い切って電話を掛けてみた。十年ぶりか、友達の名前をきちんと復唱したのは。
「…………」
 相手も同じ気持ちなのかも知れない。もう少し、私達が強かったら今でも酒を飲めたかも知れない。私達は、あまりにも幼かった。
 鳥取に向かう途中、道の駅で私は夜の海を眺めていた。階段を降りて、砂浜に行った。黒い日本海が揺れている。そうだ、これが日本海なんだ。私は一歩一歩近づいた。ざーっっと呻る波は予想以上に荒れていた。深呼吸。そして叫んだ。

「もしもし? うん、俺だけど、今日はご飯いいや。うん、ちょっと遅くなるかも知れんけど、帰ることは帰るから。うん、また連絡する」
 車の中で、ふと小学生の頃に流行った事が脳裏に浮かんだ。
「きゅーごーせんって知ってるか?」
「うん、道路だろ?」
「これ実は全部数字なんだぜ? 知ってた?」
「数字? きゅー、九? 五? 千だ!」
「な? 凄いだろ? 俺が発見したんだぞ!」
「九! 五! 千!」
 だから何が面白かったのか、私は自分の顔が笑っていることに気がつくと、まだまだ子供なんだと思い、安心して家に向かった。



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※2012年頃の作品です。


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