小説セラピー「父と金魚」(Sさんの物語)

 今だから言いますが、お父さん、私はあなたが嫌いでした。
 あなたはひどい父親でした。確かに戦争が始まる前のあなたは父として、一家の長として、そして私たち兄弟の遊び相手として立派だったのかもしれません。職場では慕われ、近所からは一目置かれ、なにより私たち家族から愛されていました。
 戦争があなたを変えたのでしょうか。
 あなたは開戦以後、極端に塞ぎ込んでしまいました。誰の言葉にも耳を貸さず、まだ幼かった私たちの相手を放棄し、昼間から酒を飲んでため息を吐くばかり。それでも私は小学生に上がりたてで、今思えばまだまだあなたに甘えたかったが、もうそんな雰囲気ではないと子供心に感じて、気がつけばあなたに対してどのように接していいのか分からなくなっていました。
 だから私はあなた以上に弟を可愛がりました。そんな私たちを見かねてか、母も次第に愛想をつかすようになり、そしていつの日かあなたは見る影もなく、気がつけば一家の厄介になっていました。
 そんなある日、あなたの元に赤紙が届きました。
 あなたは笑っているような泣いているような顔でそれを受け取ると、ただぼんやりとうつろな表情で空を仰ぎました。そのときの空の水のような青さを私は今でも忘れることができません。
 あなたはそれからまた昔のような明るさを取り戻しました。もしかしたらそれはやけになっていただけなのかもしれませんが、それでも私たち家族は嬉しかったのを覚えています。
 しかし、一度入った亀裂はそう簡単には塞がりませんでした。私はあなたにどう接していいのかすでに忘れてしまっていたようで、あなたが私を呼びよせて、よし、キャッチボールの一つでもしようか、と声をかけても、私は弟のように無邪気に笑って駆け寄っていくことができませんでした。
 どうやら人間の心は擦り傷のように簡単ではなかったようです。
 そんなある日、あなたが顔を赤らめながら近所の会合から戻ってくると、手になにか持っているではありませんか。あなたはふらふらと上機嫌で手に持っているものを差し出してきました。
 それは金魚でした。
 ぴちぴちとした小さくて赤い魚が透明のビニール袋の中で所狭しと泳いでいる。私はその美しい姿に一目で惚れました。思わず嬉しくなって金魚を受け取ろうとしたのですが、あなたは何を思ったのか弟を呼んで私には渡そうとしません。その当てつけのような態度に、私は確かに自分も冷たく接していたので悪かったとは思いましたが、しかし元はと言えば勝手に腐ったあなたのせいだと思い、ついカッとなってあなたの手から金魚を奪い取ってしまいました。
 あなたは激怒し、私の手から金魚を取り返そうと大きく手を振りかざしました。そこにちょうど弟が来ました。風を切るような音が聞こえました。あなたはそのとき酔っていました。だから仕方のないことかもしれませんが、その振り払った手は弟の顔に直撃して、弟は後ろによろめいてその場に倒れました。
 それからの記憶は曖昧ですが、確か弟は脳震盪を起こしただけで怪我はなく、当のあなたはそのまま家から出ていったと覚えています。手に持っていた金魚の袋はその時に玄関に転がって床が水浸しになりました。
 不思議なことに金魚はどこを探しても見つかりませんでした。
 母に聞いても弟に聞いても見ていないと言います。もちろん、あなたには聞くはずもなく、そして間もなくあなたは戦地に向かいそのまま一生帰ってくることはありませんでした。
 そのことが自分の人生の足をずっと引っ張ってきたのです。
 確かに私はあなたが嫌いでした。いえ、嫌いというよりは、本当はもっと私たちに関心を寄せて欲しかっただけなのかもしれません。
 あなたの記憶の中に、果たして私たちはいるのでしょうか。そのことを考えると私はなぜかとても苦しくなるのです。
 本当はあなたの中に私は私という存在を残して欲しかったのだと思うのです。私はあなたの訃報を聞いてから、ずっと心にはなにか穴が開いたままなのです。
 そして気がつけば私も年を取り、いつの間にかあなたの年齢をとうに越え、息子三人を授かる人の親になり、そして今こうして病院のベッドの上で死を待っているのです。

 私はあなたに謝りたい。

 あなたが変わったのは戦争ではなく、もしかしたら戦争から家族を守るための、あなたなりの不器用な愛情表現だったのではないでしょうか。
 どうやらそれは遺伝するようで、私も父という存在になったものの、まるであなたのように家族に溶け込めずに、思い描いていた家庭を作ることができませんでした。
 私はあなたを嫌うあまりに父親というものを否定して育ち、そのせいで自分が父親になった際に息子たちとどう接すればいいのか分からず、気がつけば冷たい父になっていました。
 息子たちはきっと私のことを家族に関心のない男だと思っているでしょう。でも、それは違うのです。私は息子たちを確かに愛しています。しかし、どう接すればいいのかが、どう愛すればいいのかが分からないのです。
 ついこの間、息子の一人が私の病室を訪ねてきました。
 そしてしばらくの無言の後に、息子は小さく言いました。
 今まで冷たくしてきてごめん、と。
 私はその息子の言葉を聞いて、涙が溢れそうになるのを必死に堪えていました。胸の奥が熱くなり、確かに私は冷たい人間なのかもしれません。ただいつものように無言になってしまい、そして息子はそのまま帰ってしまいました。私は自分を責めました。なぜあの時、あなたに同じことを言えなかったのかと。そして息子に心からの感謝をしました。

 家族を愛さない馬鹿がどこにいるというのか。

 不器用な父で、または息子で申し訳なかった。お前たちにはただただ迷惑をかけたと思っている。
 でも、それでも最後まで家族でいてくれて本当に俺は嬉しかったよ。今更だけど、家族が私にとっての生きる目的であり、または生きる理由だったんだ。
 ベッドの上で一人目を閉じると、不思議とあの日の金魚の姿がよみがえる。人生は長いようで短く、短いようで長い。お前たちはせめて後悔のないように精一杯生きてほしいと心から思っている。
 そうか。
 なぜ今急に手紙を書いたのかがようやく分かったよ。

 ――明日のためか。

 死ぬということは必然で、だからこそ人生は光輝くのだ。
 あの金魚のように、父が仰いだ水のような空の中を、あの美しい空の輝きを、私はお前たちにいつか伝えたい。
 私はまだ生きるよ。
 お前たちに言いたいことがたくさん残っているから。



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