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小説「雲の中の町」

 この町は空が近い。この町に引っ越してきて、最初の感想がそれだった。都心部から電車で一時間半。都会ではないが、ライフラインは整っている。
「整備された田舎でキレイでしょ?」
 本当は嫌だった。都会がよかった。しかし、僕にとって生きるということは彼女ありきなのだ。愛のためではない。彼女のために生きるのだ。
「ここは山だから天気は変わりやすいけど、その代わり空気は美味しいし、市が子育てを推奨している新興住宅地だから、昔ながらのしがらみもないのよ」
 彼女は笑うとうっすらとえくぼができる。僕はそのえくぼが好きだった。出会ったのは五年前。転職先の会社の上司が彼女だった。後はありきたりないくつかの障害を乗り越えて――。
「今でもたまに夢に見るんだ。君と出会ったばかりの頃の……」
 世界はいつだって死に向かって進んでいく。科学も宇宙も命も哲学も。ときにぼくはバカになった。彼女の目を見つめながら、頭の中を真っ白にして。
 人を愛するということ。それは単に生きていること以上に重要だ。だからぼくは死ななかったんだと思う。愛は不滅。そういう夢を描きながら、頭の片隅にある死を忘れようとする。
 愛だっていつかは死ぬ。二人で散歩をするのが日課になるのに時間はかからなかった。緑道を通り、行きつけのパン屋さんで折り返し、手を繋いだり、思い思いの会話を楽しんだり、鳥の鳴き声や虫が奏でる音に聞き惚れたり。
「年を取って、よぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんになっても、こうして一緒に散歩ができたら、どんなに素晴らしいことか」
「誰の本?」
「僕のさ」
「いい年の取り方をしたいわ」
「するさ」
 猫がいる。僕たちは舌を鳴らす。彼女が声をかけながら一歩近づく。猫はさっと茂みに逃げる。
「あ、見て」
 巨大な雲が空に浮かんでいた。
「近いね」
「まるで雲の中を歩いているみたい――」
 猫の鳴き声が聞こえる。彼女の携帯が鳴った。僕は雲の写真を撮って、また空を見上げる。彼女は誰かからのメールを確認している。その顔にはえくぼがうっすらと見える。ふと、夕暮れのような悲しみに襲われて、僕たちは再び歩き出す。眠たそうな空気。いつしか、どちらともなく手を繋いだ。パンの焼ける匂いが香ばしく、夢を見るように出会った頃を思い出す。
 僕は愛に生きるのではなく、彼女と一緒にただ生きたい。


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※2021年8月の作品です。


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