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出産予定日に地震で被災した家族の話

夫の匠吾(しょうご)です!

今回は、『令和6年能登半島地震の体験記』を綴りたいと思います。
※「地震発生時から1週間後」までの私たち家族の生活を綴っております。


《家族構成と事前情報》

夫:しょうご(27歳)
妻:まゆり(30歳)※妊娠中で出産予定日は地震が起きた2024年1月1日
娘:えこ(3歳)

・家族でゲストハウスを運営しているが、第二子の出産予定があったため、年末年始は予めゲストハウスを休みにしていた。
・出産予定の産婦人科が夫のみ立ち会い可能のため、娘の面倒を見るために12月30日〜1月3日まで両親が来てくれていた。
・住居兼ゲストハウスは石川県中能登町にあり、今回の地震で震度6強を観測した。


1月1日(地震発生当日)

第二子が産まれる様子もなく、家で家族と両親でTVを見ながら過ごしていた。
朝から雑煮を食べ、お昼は近くのファミレスへ。
その後、家から20分程のところにある氣多大社へ初詣に行った。

海岸近くの臨時駐車場に車を駐車し、神社の境内まで徒歩で向かった。
正月ということもあり神社は大混雑。出店もたくさん出ていた。
境内に入るとお参りの順番を待つ人で大行列。

自分の番まで残り10組程になった時、神社に緊急地震速報の音が鳴り響き、その後すぐに最初の揺れを感じた。
能登では数年前から地震が相次いで起こっていたため『またいつものか』くらいに思っていた。
体感10秒程で揺れは収まった。

そして、自分の順番が回ってきた。
賽銭を入れ手を合わせた時、2回目の揺れを感じた。
明らかに1度目の揺れよりも大きかった。
しかも、揺れがものすごく長く続いた。体感で1分ほどだろうか。
人生で体感したことのない揺れの大きさだった。

神社の建物もしなるように揺れていたが、造りもしっかりしているからか、建物が崩壊したりといったことはなかった。
大勢の人で溢れかえっていたため、あたりは騒然としていたが、最初はそこまで大事ではないと思っていた。
その後、津波警報が発令されたため、神社の駐車場スペースでしばらく待機した。
※車を海岸沿いに駐車したため

その後も、何度も何度も揺れが襲ってきた。
2度目の大きな揺れを超えることはなかったものの、体感3〜5分おきに余震が続き、徐々に事の大きさを実感した。
スマホのニュースやSNSでかなり大きな地震だったことを知ったのもこのタイミング。

1時間程待機していると少し余震も収まってきたので、神社を後に車で家に戻った。
帰る途中、全壊した家屋や半壊した家屋をいくつも見た。
そこで、さらに恐怖と事の大きさを感じた。
築90年ほどの我が家は果たして大丈夫なのか。かなり心配になった。

家に着いて、まずは建物の損傷をチェック。
半壊や全壊といった被害はなく、とりあえず一安心。
しかし、細かく見ていくと、庭の灯籠が倒れていたり、屋根の棟が半分曲がってしまったり、グラスや皿が割れたり、壁にはいくつものヒビが入ったり、外壁が剥がれ落ちたりといった被害があった。
また、断水の被害もあった。
※幸い電気は通っていた。

一度専門の人(業者)に見てもらい、安全が確保できるまでこの建物で過ごすのは無理だと判断した。
※余震もずっと続いていて怖かった。
妊婦の妻と3歳の娘が少しでも安心して過ごすにはどうしたらいいのかを考えた。
その結果、車で過ごすことにした。

食料、毛布などの必要なものを持ち、車に乗り込んだ。
寒さを考えると一晩暖房なしで過ごすのは難しいと考え、まずはガソリンを補充するために金沢まで車を走らせた。
※自宅から車で1時間程
そのまま金沢付近の道の駅で一晩過ごすことも考えたが、妻の出産予定の産婦人科が七尾市(自宅がある場所の隣町)にあるため、陣痛が来たらすぐに病院に行けるよう自宅近くの道の駅で一晩過ごすことにした。
幸い道の駅のトイレは、非常用トイレだが使用可能だった。
※断水で水が流れないため


1月2日(地震発生から2日目)

車での睡眠は1、2時間ごとに目が覚め、ゆっくり休めることはできなかったが、家で過ごすよりは遥かに安心できた。
同じように車中泊をしている人もたくさんいて、それが心強かった。
朝起きてスマホでニュースやSNSを見て、輪島や珠州などの奥能登の被害が深刻だと知った。

近隣のスーパーやドラッグストア、コンビニまでもが地震の影響で臨時休業になっていた。
そのため、再び金沢市まで出向き、水などの避難生活に必要なものを買い足しに行った。
お風呂や夕食も金沢市で済ませた。

夜は家から車で40分ほどのパーキングエリアへ。
避難所の選択もあったが、妊婦と3歳の娘が一晩過ごすには寒さがネックになるのではないかと思い、狭いが温かい車中泊を選択。
そこのパーキングエリアは断水しておらず、トイレも普通に使えることもそこを選んだ理由。


1月3日(地震発生から3日目)

日中はパーキングエリアで事務作業。
ゲストハウスの臨時休業の発信や、すでにご予約をいただいているお客様への事情説明と予約キャンセルの連絡に追われた。

夕方、妻の知り合いから「使ってない工場の部屋がある」と連絡をいただき、この日の夜からそちらで寝泊まりすることになった。(家から車で5分ほど)

家で残り物を電子レンジで温めて食事を済ませ、残りの時間は借りている部屋で過ごすことにした。
車での生活とは違い、ゆったり広々と寝ることができ、疲れも取れやすくなった。


1月4日(地震発生から4日目)

第二子は予定日を3日過ぎたが、まだ産まれる気配はない。
この日は当初検診の予定だったが、産婦人科も断水等の被害を受けており、診察が難しいとのことで明日に変更に。
また、出産も当初予定していた産婦人科から総合病院に変更になった。
その関係で立ち会いもできなくなった。
この日から家の水は出るようになり(飲み水としては使えない)、お風呂は家で済ますことにした。


1月5日(地震発生から5日目)

この日、妻は検診を受けた。
予定していた病院とは違う病院での出産のため、陣痛は来てないが念のため早めにと、夕方から入院することになった。
娘の出産の時もコロナで立ち会いができなかったので、妻は慣れた様子で病院に入っていった。
頼もしかった。
夜から娘と2人での生活になった。


1月6日(地震発生から6日目)

父と伯父が水やカップ麺等の物資を実家の三重からトラックで運んできてくれた。伯父は日帰りで、父は泊まり。
父と一緒に富山県の高岡市で食事やお風呂を済ませ、借りている部屋で一緒に就寝。


1月7日(地震発生から7日目)

父が持ってきてくれた物資の残りを、金沢市の支援物資集積所(泉本町倉庫)へ搬入しに行った。
父は帰り、再び娘と2人で借りている部屋で過ごす。
そしてこの日の夕方、無事に第二子が誕生。
陣痛促進剤を使用しないと出てこないほどののんびりやだった。
大変な状況の中で頑張ってくれた妻と息子に感謝。


あとがき

以上が地震発生から1週間後までの生活です。
上記の通り、『地震×出産』という凄まじい経験をしました。

私たちも被害者だけど、自分たちより被害が大きい人がたくさんいて、何とも言えない気持ちになりました。
お風呂に入ってもいいのだろうか、食事を摂ってもいいのだろうか。
そんな気持ちが湧いてきたのも事実です。


地震発生後すぐ、避難所などではみんなで力を合わせて困難を乗り越えようとしているのがニュースやSNSで耳に入ってきました。
私も避難所に行って自分より大変な思いをしている人の助けになりたいという思いと、「いつ産まれるかわからない妊婦の妻」と「3歳の娘」を守らないといけないという思いがずっと入り混じっていました。
それがとにかくもどかしかったです。
でもまずは家族を守ることを第一に考え、上記のような行動を取りました。

すぐに遠くの安全なところ(実家など)へ家族を連れて行きたいという思いもありましたが、出産予定日を過ぎ、いつ産まれてもおかしくない状況だったため、出産予定の病院がある震源地近くから離れることができませんでした。


1月9日から娘の保育園が再開されました。
今日何して遊んだの?と聞くと、友達と『地震です。地震です。って遊んだ』
と娘が言い放ちました。
緊急地震速報の際、町に鳴り響く放送をすっかり覚えてしまいました。
良いのか悪いのかはわかりませんが、とにかく娘もものすごい経験をしているんだと感じました。


1月12日、妻と息子が無事退院してきました。
予定していた産婦人科とは別の病院での出産。
断水や余震が続く中での入院生活。
立ち会いもできずひとりでの出産。
恐怖と不安でいっぱいだったはず。
それでも、我々家族にも一切弱音は吐かなかった妻。

そんな妻が、退院してきてすぐ、
「看護師さんも良い人たちばかりで良かった!」
と言っていた。
どんだけ強い人なんだと。
本当にたくましくかっこよかった。
息子に出会わせてくれて、本当にありがとう。


退院後はひとまず実家がある三重で生活しています。
業者に建物を見てもらい、修復作業が完了したらまた石川に戻る予定です。
ゲストハウスの再開はいつになることやら。
不安もいっぱいあるけれど、一歩ずつ、今できることをやるしかない。


今日も顔上げて頑張っていきます。


それでは、また👋

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