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「映画評」について。

Guitaristのタナカ裕一です。noteはじめました。

映画の感想を述べあうのは楽しい

同じ映画を見たもの同士が感想を述べあったりする。

もし映画の鑑賞を通じて得るものがあったのならば、同一性の高いの体験(同じ映画を見た)同士として、大いに「ソレ」について語り合おうではないか!と言ったように、とても楽しいことだと思う。


映画の鑑賞を通じて失ったもの

あるいは、映画の鑑賞を通じて失ったものがあるとすれば上映分の時間と言うことになるだろうけど、それについて語ることには特別な意味はないだろう。2時間映画を見ても、2時間昼寝しても、サウナ入ってても、ソシャゲやってても同じ2時間だから。

ああ、映画のチケット代金を失ったと言う人もいるかもしれないね。


心に刺さるTweet

つい先日、心に刺さるTweetがあったのでご紹介する。

いつも思うのは何で美術とかは広く誰でも理解されるものだと思われるのか。植物学者が見る植物と素人が見る植物の解像度が違うように美術を専門でやってる人が見る美術作品と素人が見る美術作品では解像度が違うというのがわからないのは、美術は広くみんなに理解されるべきというのがあるからだろうな

Haruka KUDO


音楽でも同じだよなと、思うところがあったのでぼくもTweetしてみた。

音楽もきっとそう言う感じがあるだろうなあ。

・聞いてもピンとこない。
・よくわからない。
・感動しない(感動と言うのは号泣みたいなやつのことで、そのゆるいやつがエモいみたいなやつだったり)

つまり、この音楽はおそらく価値が低いためにワタシに訴えかけてこないのだ。みたいな解像度の理解。

Yuichi Tanaka


ザックリまとめると。

前項のTweetについてザックリまとめると。

植物の観察においては植物学者などではない素人がその植物を観察して「よくわからない」だったにせよ、それについて怒ったりしない。

植物を見つめるその目、その解像度の低さについても自覚していることだろうし、そもそも植物はワタシに何かを伝えるために存在していないことがわかりやすいからだと思う。


けれど、映画でも美術でも音楽でもそれを鑑賞して「よくわからない」だった場合には・・・

例えばそれが映画ならば「映画評」として

「よくわからなかった!」とか
「嫌いだ」
なんなら「怒っているぞ」

と表明したりする人がいる。



奉仕するもの

芸術系コンテンツ(映画とか、美術とか、音楽とか)はすっかり「それはワタシたちに奉仕するもの」と言う位置づけになってしまったように思う。

その鑑賞を通じてワタシたちに「何か」を与えてくれるものだと

逆に考えてみればそりゃそうだと言うことだけど、世の中の誰ひとりに対しても何も与えてくれない作品は、その辺に生えている雑草程度の価値と言ったところであろうからだ。その雑草はおそらく誰にも何かを与えない。


特に言えば、時間を使って、「(入場料などの)お金を払って」その芸術系コンテンツ(雑草)を鑑賞した(させられた気分でいる)人からは、こんな声が上がることにもなるのだろう。

ワタシに奉仕しない、つまり。
・ピンとこない。
・よくわからない。
・感動しない
ようなものを見せやがって!時間と金返せこのクソが!!

けれど、別にワタシにとってピンとこない、よく分からない、感動しない作品だったとしても、そんなのは当たり前。だって、その作品はきっとアナタのために作られていないから。アナタが勝手に「感動」だったりを求めて劇場へ行って、その結果、期待が叶わなかっただけのことで、別にその作品はアナタを感動させるためになんか、ひとつもそのためになど作られていないのだから、当然のことでしかない。感動できたなら「儲けもん」だよね。


しかし

もとより「わかる」とか「何かの見方・理解」が得られる「○○を得られる」と言う前提で鑑賞するのがそもそも破綻した行為であって。

「○○を得る」のはアナタだ。
「○○がアナタに○○を与えてくれる」わけではない。

例えば映画作品と言うのは、○○を享受すること自体が契約内容である場合があるレクチャーのようなサービスではない。従って、アナタが○○を得ることが出来ようと出来まいと、映画側に何ら責任はない。

(必ず○○を理解することが出来ます!と言うレクチャーの類であれば、がんばってそのレクチャーを受けたのに何ら○○についての理解が手に入らなかった場合には怒った方がいいかもしれない。)


悪評そのものを責めたりしない

ワタシに奉仕しない、つまり。
・ピンとこない。
・よくわからない。
・感動しない
ようなものを見せやがって!時間と金返せこのクソが!!

的な、つまり「○○を手に入れることが出来なかった」系の評価ではなくて、「○○を得た」ことについての評価が、良いものであろうと悪評であろうと、別にそれはどちらでも良いのだと思う。

「○○を手に入れることが出来なかった」のはそれがアナタのせいであろうと、映画のせいであろうと的外れと言っているだけで、「○○を得た」ことについての評価は(それが好評でも悪評でも)冒頭に書いたように、「ソレ」について語り合うことはとても楽しいことだと思う。



何のために鑑賞したらいいのだろう

「何かを得られたらいいね」

けど、基本的には何も得られないばかりか、時間もお金もかかるよ!

というものを鑑賞しに出かける。入場料を支払う。上映時間分の時間を掛けて鑑賞する。なんと言うかギャンブルみたいなもんですよね(笑)


でも、旅行へ行って「絶景スポット!」と名高い観光地へ行くとき、そもそも時間もお金もかかっている訳なのだけど、そこで「何かを得られたらいいね」以外の心持ちでその景勝地へ足を運んでいる人などいるのだろうか?

基本的には何も得られないことなどわかり切っていて、もちろん何も得られなかったときに、絶景スポットに対して怒ったりするかね。


芸術系コンテンツ(映画とか、美術とか、音楽とか)もまた
そんなようなものだと思うのですけどね


楽しいかわからないけど、ひとまず行ってみる「景勝地へGo!」的なギャンブルだと思って頂けると。

そして、仮にカジノのテーブルに座ったとして、アナタが勝とうと負けようとそれはゲームの(景勝地の、芸術系コンテンツの)せいではないよね。

プレイヤーであるアナタの力量不足、運が足りなかったとただそれだけ。



アナタのギャンブルに勝利の女神が微笑みますように!

運否天賦ではなく、このギャンブルの勝率を上げるためにはその作品にまつわる事柄についての読解力、リテラシー、途中に書いた植物学者ならその学者としての眼差し、植物への理解度、解像度、そう言ったものを持ってして鑑賞することで、場合によっては常勝も夢じゃない!?

(かもしれません)


ちょっと追記

これは鑑賞する立場ではなくて、自分が鑑賞される側にまわる時だって同じだと思ったので追記。つまり鑑賞される側にまわる時も命の時間を削る、死のギャンブルに臨んでいるのだ。(おどろおどろしく言ってみた。)


例えばぼくなら音楽を人生の75%ほどもう30年近くやっていて、なかなかそれなり以上には研鑽を積んできたと思う。もし書道と比べるなら、書道の実技については学校の授業でやったことがあるくらいで研鑽はほぼゼロ。

だから、ぼくが今から書道家になる!(それによって何か得られるものがあるかもしれない)と言うギャンブルに臨むとき、その勝率は、言うまでもなく音楽の方が遥かに高い。

高いと言うか、(金額換算だとして)勝利金額の総額は常にプラスで、プラスが詰まれ続けているから音楽で生活できてる訳なんだけど、別に金額換算しなくたって、仮に書道も音楽も完全未経験のAさんがそれぞれから何らかの喜びを見出せるようになるまでかなりの努力が必要だと思うのだけど、ぼくはもうほとんどいつだって音楽から喜びを見出せるのだから、必勝のギャンブルと化した音楽をやらない訳がない。(対書道比)


普段と違うことをやってみようと言う気晴らしに書道をやってみようかと言うことが仮にあったとしても、そんなものはあくまで余暇、気晴らし。

運否天賦ではなく、このギャンブルの勝率を上げるためにはその作品にまつわる事柄についての読解力、リテラシー、途中に書いた植物学者ならその学者としての眼差し、植物への理解度、解像度、そう言ったものを持ってして鑑賞することで、場合によっては常勝も夢じゃない!?
(かもしれません)

と書いたけど、「やる側」だと、鑑賞する側に比べてさらに勝率を上げられるのだと思う。そのための研鑽を積みまくれ!!

それが、音楽でも書道でも、サウナでもヨガでもいいと思うのだけど、常勝のギャンブルを手に入れるための研鑽と言うのは、積んで損はない。

(常勝なのだから損は無くて当たりまえか)



さらに追記

読者から感想がLINEへ届く。コメント欄とか、各種SNSにシェアしてそこに感想書いてくれよ(笑)とか思ったりもするけど、感想ありがとう。

常勝、と書いたら「そうか!そうすれば(仮に対象が)植物でも蟻でも裁判でも、すげー毎日楽しいってなれる」ってことかね。

的なことだったのだけど「すげー毎日楽しいってなれる」とは書いてないし、そうは思わない。別に毎日すげー楽しくはないww


※以下のようでいると。

運否天賦ではなく、このギャンブルの勝率を上げるためにはその作品にまつわる事柄についての読解力、リテラシー、途中に書いた植物学者ならその学者としての眼差し、植物への理解度、解像度、そう言ったものを持ってして鑑賞することで、場合によっては常勝も夢じゃない!?
(かもしれません)

生涯収支(金額換算でも金額換算でなくても)をプラスにしやすい

と思うよ。と言うだけのお話。


たかだか、読解力、眼差し、理解度、解像度を高めたいな!みたいな心がけをすることで、プラス収支がほとんど約束されるようなことなんてそうそうない。

仮に受験、仮に就職、仮に結婚、そんなようなことだって、いくら「読解力、眼差し、理解度、解像度を高めたいな!」と言う心掛けがあったとて(金額換算でも金額換算でなくても)収支マイナスは世の中にはザラなのだ。

少しくらい、常勝の可能性がある領域が人生にあったっていいじゃないか。そう言うのって希望だし、夢があるじゃないか。

と言うそんなお話でした。




今回以上。感想などなどもお気軽に。

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