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「哲学」ってなあに?ジャズギタリストが書いてみた①神話の時代が終わりを告げる

Guitaristのタナカ裕一です。noteはじめました。

「お字書き道TALKSの記事」から借りて来た画像
話し相手⇒書き手。ですね

突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです。

「哲学」が大好物だと言うと、なんか宗教?と思われたり、「思想強そうww」とか、ようするに煙たがられたりするのだけど、それはぼくにとって何とも生きずらいので、「哲学ってなあに?」と言うことを書いてみる。

もちろん、このnote記事も煙たがられるだろうけど、文章なら嫌な人は読まないだろうから、被害?(煙たくて目が染みる)も少なかろう。

以下は出来るだけ、専門用語だったり、哲学者の名前だったり、固有名詞みたいな覚えながら読み進める支障になりそうなワードは少な目に書いていけたらと思っている。


哲学が目指すこと

哲学はそもそも何を目指しているのだろう?

冒頭に「思想強そうww」と冷やかされがち、みたいなことを書いたけど、ここで言っている「思想」と言うのは「主観(思い込み、それはアナタの感想ですよね?)」が強そう。って意味でしょう。

けれど、哲学と言うのは主観や思い込みを解体しようと言うような取り組みなので、真逆なのである。

それでは、人類が主にどんな「主観や思い込みを解体」してきたのか哲学の功績を振り返ってみよう。

哲学と言うのは主観や思い込みを解体しようと言うような取り組み


神話じゃない!科学だ!

古代ギリシア、だいたい紀元前600年とかそのくらいにはもう人類はがっつり哲学してた。覚えなくてもいいけどタレスと言う人が

万物の根源(アルケー)は“水”である!

と言っていた。このあたりが最初の最初らへん。

※注釈:紀元前750-700年あたりには古代インドでヤージュニャヴァルキヤと言う人がいて、ウパニシャッド哲学と言うのが盛り上がっていた。ザックリ言ってアートマン(主観、個の根源)とブラフマン(客観、宇宙の根源)は一緒だよ。梵我一如、ここへたどり着けば最強、絶対の精神!悟り!と言う、仏陀よりも前の話。しかしのヘーゲル(1770年8月27日 - 1831年11月14日)で西洋哲学もほとんど同様の地点にたどり着くのと、東洋哲学のテーマはほとんど梵我一如、道(タオ by老子)、分別智・無分別智みたいな話で、結局あとから西洋哲学が追い付くなら東洋哲学の系譜はいったん割愛しても大きく取りこぼしたりしないだろうと言うことで、西洋哲学の流れを追って行きます。でもさ、2千年も早く東洋哲学は西暦1800年前後の西洋哲学と同じことをやっていたんだからスゴイよね。ちなみに、西洋哲学はインフレバトル的なんですよ。考えごと版のドラゴンボール、倒しては倒され、どんどん強くなって(真理へと向かって)いく過程で様々な地点に到達していく。東洋哲学は最初に真理的なものがドカンとあって、そこへのアプローチ法が進化していく感じ。

※追記:良い表現(?)を思いついたので追記。西洋哲学がドラゴンボール、インフレバトルなら。東洋哲学はさながらトルネコの大冒険。いきなりそのラストダンジョンからゲームが始まる感じ。最強、最高難易度のダンジョンにいきなり放り出されて、何度も攻略失敗しては再アタック。再アタックのたびに攻略対象はフワフワとその形を揺らがせながらもその本質は変化せず。やられては最初からやり直し、そのたびにプレイヤー側のスキルが向上することでラストダンジョン踏破を目指す。イメージそんな感じ。


本題の続き↓↓↓


古代ギリシア人、世界が何によって成り立っているのか考えてみた

昔々、人類は今以上に自然に翻弄されながら生きていたし、それを何とか神話とか言い伝えみたいなもので、嵐が起こったら「山の神がお怒りだ」とか言って何とか、無慈悲なる自然の振る舞いに納得しようとしていた。

けど、神話や言い伝えってホントに正しいの?それってアナタの思い込み、感想、主観によって「正しい」ことにしようとしているだけで、実際に正しいかどうかなんてアナタは考えてないし、興味すら持っていないんじゃないの?って言った。

つまり、この世界、荒れ狂う自然、それを神話や言い伝えを鵜呑みにしないで考えてみようよ。そこには何か理由があるんじゃないの?と考えてみたくなった人たち。これが哲学のはじまりでありましょう。

古代ギリシア人、世界が何によって成り立っているのか考えてみた一覧が以下。

水 タレス(紀元前624年頃 - 紀元前546年頃)
火 ヘラクレイトス(紀元前540年頃 - 紀元前480年頃)
空気 アナクシメネス(紀元前585年 - 紀元前525年)
無限(アペイロン) アナクシマンドロス(紀元前610年頃 - 紀元前546年)

土・空気・火・水 エンペドクレス(紀元前490年頃 – 紀元前430年頃)

原子 デモクリトス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)
数 ピタゴラス(紀元前582年 - 紀元前496年)

最初は水だの火だの空気だの個別に要素を挙げていた。

で、まとめたら「土・空気・火・水」じゃないの?って感じで、ファイナルファンタジーのクリスタルみたいな感じの世界観になった。

そこからがスゴイよね。一気に「原子(アトム)」と言うものに考えごとだけでたどり着いている。あとは「数」と言うのもすごいよね。要するに数学や物理など、科学の時代の到来を紀元前には示唆していた。

神話じゃない!科学だ!


「神の時代」科学の発展には時間が掛かる

神話じゃない!科学だ!と言ってみたものの、科学の発展には時間が掛かったのでした。

ギリシアの哲学はざっくり紀元前七世紀頃から紀元後六世紀くらいの期間やっていたのだけど、それから科学の時代、人間の考えごと、理性を信じて未来へ向かおうぜ!ってなるあたりが、「我思う、故に我あり」でおなじみルネ・デカルト(仏、1596年3月31日 - 1650年2月11日)なので、約千年くらい間が空いちゃう。


じゃあその間どうしてたのかと言うと、「神の時代」がそこにありました。ようするにキリスト教ですね。

要するに、この世界は「原子」や「数」によって成り立っているのだと言ってみたところで、それを証明できる科学はまだなかったので、いくらこの世界が「原子」や「数」によって成り立っているのだ!と言う考えごとが正しそうでも、証明できなければ結局また

主観、思い込み、それはアナタの感想ですよね?

ってなってしまって、「じゃあさ!」もう全知全能なる神様がいて、世界はそれによって成り立っているんだよ。ってことにしちゃった方が便利じゃないすか?って感じになった。

神の時代はざっくり1,000年間くらい!(600-1600年とか)


人間の「理性」を信じる時代が始まった

キリスト教、教会に任せてたんだけどね。

ルター(独 1483年11月10日 - 1546年2月18日)って社会科で習った人。ザックリで言うとキリスト教に任せてたら、免罪符を買ったら罪が赦されますよ!とか、結局庶民から金むしり取る組織みたいになっちゃって、それでルターって人が「そう言うの良くないと思う!」って言ってた。

もうこのころには、神に任せていても良くならないんじゃね?ってみんなが気付き始めていた。

でもかと言って、1,000年間も「神が絶対!」みたいにしてやってたから、急に神様を捨てるのは抵抗があったし、仮に神様を捨てたあと、つまり人間がまたひとりぼっちで何かやったとして、それで本当に上手く行くの?って疑いがあるよね。そこで登場するのが、前項の「我思う、故に我あり」でおなじみルネ・デカルト(仏、1596年3月31日 - 1650年2月11日)

全てを疑って、疑って、疑ってみた。

全てなんだから、ワタシのことも疑ってみた。例えばワタシは本当にいるの?疑わしいよって。

だけど、そしたらこの「ワタシを疑っているワタシ」ってこれは絶対あるよな。それについては間違いなく認識できているといえるよ。

ああ!神に頼らなくたって。人間の「理性」によって間違いなく正しいことにたったひとつだけど、でも!たったひとつたどり着けたぞ!!


近代哲学スタート!神の時代から、人間の「理性」を信じる時代が始まったのでした。

この一見正しそうな「我思う、故に我あり」についても即、超強力な反論に合うし、その超強力な反論もまたひっくり返されて行く・・・そんな考えごとのインフレバトル、近代哲学偏が開幕するぞ!

続き、②のリンクがすぐ下に貼ってあるので急げっ!!


近代哲学偏は、次回へ続く!


以上。感想などなどもお気軽に。

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