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「哲学」ってなあに?ジャズギタリストが書いてみた②近代哲学、本質~実存主義

Guitaristのタナカ裕一です。noteはじめました。

「お字書き道TALKSの記事」から借りて来た画像
話し相手⇒書き手。ですね

突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです。

「哲学」が大好物だと言うと、なんか宗教?と思われたり、「思想強そうww」とか、ようするに煙たがられたりするのだけど、それはぼくにとって何とも生きずらい。

でも。ここで言っている「思想」と言うのは「主観(思い込み、それはアナタの感想ですよね?)」が強そう。って意味でしょう。

けれど、哲学と言うのは主観や思い込みを解体しようと言うような取り組みなので、真逆なのである。

哲学と言うのは主観や思い込みを解体しようと言うような取り組み


それってアナタの感想ですよね?って煽りを真正面から受け止めて跳ね返し、粉砕しようとする戦いの歴史なのである。


振り返り

※前回①を既読の方はこの項目は飛ばして大丈夫!

昔々、いや今でも人類は自然の驚異の中で暮らしている。でも、この世界の成り立ちを知ることが出来たら対応策も立てられるよね!ってことで、いろいろ考えて、神話や言い伝えで何とか世界を理解しようとしてたんだけど、それ(神話)ホント?ってなった。

それで、せっかく古代ギリシア人たちが世界は「原子」とか「数」によってできてるんじゃないの?(紀元前5~4世紀)

って頑張って考えてくれていたのだけど、世界が「原子」とか「数」によってできてるって証明できるほどの科学はまだ発達していなくて、だから結局「世界が原子とか、数によってできてるってアナタの感想(主観、思い込み)ですよね?」ってなっちゃった。

代わりに、全知全能の神様がいることにして、それを信じることで人間はおよそ西暦600-1600年くらいの期間、神の時代を過ごした。

だって、世界が仮に「原子」とか「数」でできているとしても、日々の暮らしが救われるわけではないし、信ずるものは救われるって言われたら、そっちのが実際の暮らしにいい影響がある気がするよ。


けれど、教会は結局は免罪符売って庶民から金を巻き上げる組織みたいになっちゃって、さすがにこれは「いい影響がある気がするよ。」とばかりは言ってられないぞってなったんだけど、1,000年間も「神が絶対!」みたいにしてやってたから、急に神様を捨てるのは抵抗があったし、仮に神様を捨てたあと、つまり人間がまたひとりぼっちで何かやったとして、それで本当に上手く行くの?って疑いがあるよね。そこで「我思う、故に我あり」でおなじみルネ・デカルト(仏、1596年3月31日 - 1650年2月11日)登場。

全てを疑って、疑って、疑ってみた。

全てなんだから、ワタシのことも疑ってみた。例えばワタシは本当にいるの?疑わしいよって。

だけど、そしたらこの「ワタシを疑っているワタシ」ってこれは絶対あるよな。それについては間違いなく認識できているといえるよ。

ああ!神に頼らなくたって。人間の「理性」によって間違いなく正しいことにたったひとつだけど、でも!たったひとつたどり着けたぞ!!


近代哲学スタート!神の時代から、人間の「理性」を信じる時代が始まったのでした。詳しくは前回①をお読みください。未読の方はぜひ!


ココから下が今回の内容↓↓↓



「理性」の時代

デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲルなど、たくさんスターがいて細かく書くとこの記事の本題である「哲学ってなあに?」から逸れてしまうから泣く泣く割愛する。大まかなところだけイメージ掴んで欲しい。

全知全能の神!もし仮にそのような存在がいたとしても、結局それを人間が上手く扱えなかった。教会に任せても先行き不安!となるのにざっくり600-1600年あたりの千年かかった。

神にとって代わるものは何だろう?「人間の理性」である。


でも「人間の理性」って言ったって、それでどうするって言うんだよ。ってことについてのマジレス。レスバ(トル)の大まかなところを以下に示そう。


マジレス①

神への信仰が最重要と言う時代が薄らいで、学問がどんどん発展していった。けど、ふと思った。人々が学問をどんどん積み上げて行っているけど、そもそもその正しさってどうやって保証するのよ。前提、土台が間違っていたとある日わかったら全て台無しじゃない。人間が考えてることのうちで、とにかく間違いのないことってあるのか?

「我思う、故に我あり」ようするにワタシがワタシを疑うとき、そこに疑い、疑われているワタシが認識されるってことは間違いない(デカルト:大陸合理論)

追記:疑って(考えて)いるワタシは確実にいる→ワタシは神の存在を知っている→神(完全で無限)、ワタシ(不完全で有限)→不完全なワタシが完全を知っているのはおかしい→つまり神はワタシが考えたものではなくてワタシの外側から与えられている→(人間の外側に)神は(間違いなく)存在する→完全である神が存在するのだからその神が作った世界がでたらめなはずはない→世界は合理的→人間が理性を働かせて認識したモノは正しい。

マジレス②

「疑って(考えて)いるワタシは確実にいる」とか言ってるけどさ?それホント?肉体的な感覚器官があってさ熱いとか寒いとか、痛いとか、嬉しいとか、なんかそんなのを連続的に経験しているうちに、その経験が束になってワタシが発生したんじゃないの?

経験が先で、ワタシが後。経験が先ってのは神も同じだよ。絶対性みたいなものにまつわる経験の束を、神の存在と呼んでるだけ。

だからデカルトが言うワタシも、神もいる!みたいのはナンセンスだよ。経験がゼロの状態(生まれたての赤ん坊とかね)にはワタシも、神も認識不可能でしょう。まだ何も経験してないんだから経験の束なしに何もわからんて(ヒューム:イギリス経験論)

マジレス③

経験が先にあって認識や存在が起こるって言うけどさ、それってほんと?何かモノ自体、混沌としたものがあって、それを人間の精神でもって、人間の尺度における経験に変換してるんじゃないの?ひとまず悟性と呼んでおこうかしら。

認識が無ければ経験も存在もなくね?(ここでは悟性とか用語はさておいても)とにかく人間の尺度でしか認識しようがないよね。人間の目は狩りをする猛禽類に劣るし、人間の耳はコウモリみたいに超音波を聴き取れないし、認識ったって、それは「人間の」認識でしかなくてさ、それ以上のものは無理じゃね?なんだって人間の尺度でしか経験出来ないんだから、この尺度、人間固有の感覚形式で扱えるものしか扱えないよ。無限とか完全については扱えないのよ。

だから、いきなり飛躍して全知全能の神がいます!とか言っても、そんなの雑過ぎるんだよ。全知全能とかそんなの人間の尺度で認識しようがないでしょ。そんなとこへ逃げ込んじゃうのは「理性」を追求することを怠けてるだけ!もっと人間の尺度基準でマジで考えてみようよ(カント:ドイツ観念論)

追記:カントは神を否定したのではなくて、それは人間が扱えないよ!と言った。人間が扱えるものを扱おうと言うことね。人間の経験は、時間や空間などの人間固有の感覚形式によるもの。時間や空間を通して経験する(因果関係や、大小関係)ことには個人差は無く、ゆえにこの人間固有の感覚形式に基づいて演繹的な考えを積み上げることが可能。ただしその答えが正しいかどうかは不明だし、あるいは解決が不可能な問題もまた存在する。

マジレス④

人間の尺度で経験し、認識するものを取り扱う対象としようよ!って言うけどさ、人間(主観)と世界(客観)って設定が何か変に思うよ。そもそも全てがワタシの精神現象でしかなくないすか?ザックリ言って全てオレ、オレが全て。オレの理性によって世界が浮かび上がってる。オレ(人間)の理性、精神=世界。そして理性、精神は成長するのだ!以下のようにね。

マジ考えてみたんすけど(Aさん)、マジ考えてみたんすけど(Bさん)の2人がそれぞれの「理性」を追求し、持論を戦わせています。そこへCさんが現れて「AさんBさんの2人の考えをどちらも満たす○○ってアイディアがあるんすけど」と、醤油ラーメンしかなかった時代にラーメン食べたいAさん(テーゼ)と、味噌味食べたいBさん(アンチテーゼ)の願いを同時にかなえる新しい「味噌ラーメン(ジンテーゼ)」をCさんが発明してみせるようなこと。こうやって考えをどんどんアップデートしていけばいつか全知全能、すべての考えごとを満たす地点に到達するんじゃね?(弁証法)

いつしか主観(人間の精神)と客観(世界)は限りなく近づいていく。人間の理性、精神=世界。この地点へと成長し向かっていく。世界(客観)を次々解き明かしていくことで、主観(人間の精神)と対立する世界(客観)との差はいつかなくなる。オレは世界、世界はオレだ!

そうだよ!人間は人間の「理性」を働かせて完璧な地点、主観と客観が統合された絶対精神、「本質」へと向かっていけるんだ!「人間の理性」ばんざーい!!(ヘーゲル:ドイツ観念論)

これにて合理主義の哲学が完成!!

いつしか主観(人間の精神)と客観(世界)は限りなく近づいていく。人間の理性、精神=世界。この地点へと成長し向かっていく。

ってもはやアートマン(個の根源、我)と、ブラフマン(宇宙の根源、梵)が一緒!と言うインド哲学の梵我一如、釈迦の仏教、老子の道(タオ)と同じですよね。つまり別系統である東洋哲学の目的地をも約2千年遅れながら回収してしまった。ヘーゲル恐るべしっす。

神に頼らずとも、人間の理性を働かせていけば、いつの日か、主観と客観が統合された絶対精神、「本質」へとたどり着けそうだ!

「人間の理性」ばんざーい!!


「本質」じゃ腹は膨れないんスわ - 実存主義

人間は「完璧な地点」すなわち「本質」にいつの日かたどり着ける気分がして、ばんざーい!!ってなってました。

まあそれはいいんすけどね「本質」追い求めてくださいよ…

でもさ、そんな本質なんてもんが仮にあったとして、結局また「全知全能の神」に取って代わる何かでしかなくないすか?

神がいても、本質が目の前にあったとしても「現実に存在しているオレ」の腹は膨れないんスわ。


「本質」とかじゃなくてさ。現実に存在している、現「実存」在についてさ。「実存」について考えるってか、まあ何つーか大切にした方が良くないすか??

みたいのが「実存主義」

もう少し説明すると、鉄(Fe)と言うのは室温付近の密度が7.874 g/cm3、融点が1538 °C、熱伝導率が(300 K) 80.4 W/(m⋅K)で、かくかくしかじかと言うようなものが鉄の「本質」です。

だけど、「人間とは群れを作る性質があって、集団で群れを成して暮らします。うんぬん」と言ったところで、オレは違う!たったひとり、孤独に生きる!とかそう言うことが可能だ。主体的な自由意思によってお仕着せの「人間の本質」を跳ね返すことができる。だから、本質では縛れない!本質に規定されずに、可能性を追うことが出来る。みたいのが「実存主義」


オレは絶望している

現実のオレは毎日毎日なんらかの決断をして生きててさ、その決断って正しかったかどうかわかんないよ。本質みたいなとこへ到達する前にいつか老いたりしてさ死んじゃうよ?本質、願いみたいなとこには到達しないし、その前に死んじゃうんだからもう絶望だよ。じゃあもう「神(究極の可能性)」を信仰してた方がいいよ。本質ではなく「神(究極の可能性)」を追うのだ。少なくともオレにとってそれがベストだよ(キルケゴール)


人間、オレ(実存)は本質に先立つ - サルトル①

パン切り包丁があるとするじゃん。「パンを切るために」鍛冶屋さんが鉄を加工して作ったものだよね。でもさ、人間って「○○のために」生まれてきてないよね?だから究極の本質みたいなものについて仮に考えてみたところでさ、別にそのために生まれて来てなんかないってことだよね?

つーか、もっと言うとさ、その辺の石ころでもリンゴでも何でもいいよ。とにかく全ては「○○のために」生まれてきたわけじゃないじゃん。石ころを積んで石垣を作ったり、リンゴ食べて美味しいとかさ、それは「意味を見出しただけ」でさ、もともと石垣のために石ころ君は生まれてないワケ。わかる?そのリンゴだって別にアナタにかじられるために生まれてないよ。

本質なんかないし、そんなの意味ないんすよ。


サルトル② - 意味ないなら、見出そうぜ。意味。

じゃあどうするかって?「意味を見出す」んだよ。そのためにまずは「○○のために」生まれてきてないって言う、人生の無意味さと言うか、定義されていなさを受け入れてさ。それで、世界と、社会とエンゲージ(婚約)するんだよ。

神様がこうおっしゃってます。王様がそうおっしゃってます。だからそれに従うって、アホかww

アナタがアナタの人生、存在意義、そう言ったものについて、世界、社会との関係性の中から「意味を見出す」んだよ!

そうやって、神様や王様に従うんじゃなくて、アナタ自身によって世界、社会に参加して、アナタの理想の世界を叶えていくんだよ。

アンガージュマン!!


こうして、神の時代を脱したものの、一部の賢い人たちが本質を追い求めたり、結局は王様が好き勝手やってて、「オレ」は幸せじゃなくて、なんなら絶望してるし、生きてる意味も分かんね…はぁ(溜息)

みたいなところから「アナタ自身によって世界、社会に参加して、アナタの理想の世界を叶えていくんだよ。」と、理想の世界、社会を作ることに夢中になってくのでした。

追記:もちろんのこと、21世紀の現在だって、神や信仰と言うものが世界にあるのは変わらない。けれど、あらゆる国際会議なんかをやめたり、その重要度は神に劣ると言って、人間が考えずに人類全体の舵取りをただ「神」に預けてしまおう。と言うことはもう起こらないのだと思います。このことを「神の時代を脱した」と呼んでみただけです。サルトルもアナタは神からですら自由なのだ!自由にアナタの意味を見出そう!って言ってるだけで、神なんかいないとか言ってない。あと、日本生まれ日本育ちの筆者には神と言うのはぜんぜんリアルでないし、ここで言ってる神からは元から自由なので、神がどうこうと言うのがいつも話のどこかに紛れ込むことでしか成立しないような哲学は、万人に共通でないと言うことなので、強度が低いということにはなると思います。ここまで挙げて来た人たちは神について言及はすれども、別にその部分を除いたり、あるいは完全や無限と言い換えても充分に強度を保つことが出来て、その重要度が低下しない。


以降「各個人が見出している意味」みたいなものはとても尊重されるようになって、21世紀の現在でもコレは主流の考え方だし、何ならその尊重(?)のされ方は多様性と言う言葉を看板に加速してますよね。

「オレ(男性として生まれた)」の「性自認(見出した意味、オレの俺による理想の存在の在り方)」は「女性」なのでそこんとこよろしく!それではオレは女性であるので女湯へ入りますね。は?チンコついてるとか知らねーし。オレは女性なの!!ざぶーん。

とかね。


でもさ…(忍び寄る影)- 次回予告

「○○のために」生まれてきたわけではない、オレがオレの人生に見出した意味。

「オレ(男性として生まれた)」の「性自認(見出した意味、オレの俺による理想の存在の在り方)」は「女性」なのでそこんとこよろしく!それではオレは女性であるので女湯へ入りますね。は?チンコついてるとか知らねーし。オレは女性なの!!ざぶーん。

ここに「でもさ…」と忍び寄る影。

そして眼前へと現れ、マジレスしてくのが「構造哲学」と言うやつ。


つーか、もともとさ「生まれつきの体の構造の違い」で男湯、女湯を分けてたんだわ。だから、チンコついてんならダメだよ。女湯入っちゃダメ!

みたいなとこを入り口にしてみると「構造」ってことについてイメージ掴みやすいかもしれません。ザックリ言うと、神の代替品としての本質を求めるところから、全ては「○○のために」生まれてなんかないし、だから本質(もともとの意味)なんかねーし意味ねーし、じゃあ意味は自分で見つけますんで、からの意味を幾ら見つけたとか言ってもさ「オレは背中の翼で大空を翔けるのだ!」とかそんなのは無理じゃん(笑)

だってさ、翼の生えた人間なんか一人も見たことないし、もし翼が生えていたら、それ人間じゃないでしょww

アナタはそう言った仕組み、構造の中にしかいられないんだよ。



次回は「構造哲学」以降の哲学について触れていきたいと思います。


以上。感想などなどもお気軽に。

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今回以上です!

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