「哲学」ってなあに?ジャズギタリストが書いてみた⑤最終回「君たちはどう生きるか」の先にあるものとは
Guitaristのタナカ裕一です。noteはじめました。
突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです(以下略)
ひと昔前のアニメのオープニング(毎回冒頭に同じテーマ曲&映像が流れる)かの如く冒頭に同じ文章を置いてたけど、今回はなし。何故なら最終回だから。アニメでも重要回はオープニングが違ったりするでしょ。
構造主義のあと
ウィトゲンシュタイン(後期)
(前回のおさらい)
言語によって思考する限り、言語(言語ゲーム)と言う「構造の中での正しさ」にしかたどり着けませーん!だからもう考えても無駄でーす。
思考と言う言語ゲームをクリアしてもそこには普遍性なんか無いよ。
哲学(考えごと、言語を組み合わせること)終了!
と、何だかもう寄る辺がなくなってしまった。とほほ・・・
考えごとしても「普遍的な正しさ」には到達できなさそう・・・
そんなはずない!と言って反論しようにも、その反論が思考、すなわち言語を組み合わせた言語ゲームである限り、結局、いくら言葉を尽くしてもこれには勝てない。つまり仮に勝ったとしても、それは言語ゲームの中の勝利で、その勝者もまた言語ゲームの内側にいることは変わらない。
(言語によって思考すると言う)システムに属している限り、そのシステムの外側には出られない。
ボードリヤール
ボードリヤールって人も、資本主義は記号を消費し始めてしまった。人々は労働し記号(付加価値)を生み出し、得た賃金で記号を消費しているし、そうやって記号が消費されるとき、そこでは誰かがその記号を生み出すために労働していて、しかも記号ってのはいかようにでも無限に生み出せるんだから(何らかマークでも作って、新しいブランドです!エコ!エシカル!LGBTQ!いまはコレが主流です!みたいなことは無限に可能)すなわち無限のデッドロック!もはや人類はこの資本主義のデッドロックから抜けられない!みたいなことを言ってるんだけど、同じ感じがするよね。
(記号を消費する資本主義と言う)システムに属している限り、そのシステムの外側には出られない。
「ポストモダン」「ポスト構造主義」
ポストモダン、ポスト構造主義とか用語はあって、厳密に言えば異なるものをあらわしているのだけど、ココではザックリ一緒にしてしまう。
考えごとの先に何か「普遍的な正しさ」みたいなものがあって、それを追い求めるんだ!と言う
みんなの物語、同一性の物語
「大きな物語」が終わった
「普遍的」であるなら誰しも全てがそのシステム、構造の中にいると言うことなので(言語を組み合わせて思考するとかね)、何度も繰り返すけれど
(○○と言う普遍的である何か、その)システムに属している限り、そのシステムの外側には出られない。
そのあとのお話・・・
ドゥルーズ、デリダ
ジル・ドゥルーズ「リゾーム」
ジャック・デリダ「脱構築」
などなど。
ようするに超、とても、すごく強引にまとめてしまうと。
もう「普遍的な正しさ」(大きな物語)がある前提だと、そこへの近さみたいなもので、いやこの近さってのは別に武力でも資金力でも何でも良くて強さ、少なくとも強い方が上、正しいだろみたいな感じになっちゃうでしょ?すると強さ、正しさの度合いによってヒエラルキーが発生しちゃう。
これを打ち破らずに、ヒエラルキーの中で人々が暮らし続けるかぎりは結局「普遍的な正しさ」みたいなものがあるよ、と言う前提を強化し続けちゃうし、だからと言ってクーデター!地球の覇権国家をぶっ潰す!!みたいのももう現実的じゃない。だって、それって核戦争だし、地球が亡んじゃう。
地球滅亡は嫌だから、じゃあもう(大雑把に言って)無視しようよ。そう言った「普遍的な正しさ」みたいな大きな物語に寄り添うことを各自それぞれがやめちゃおう!同一性(大きな物語)をみんなで過ごす方向じゃなくて
差異(小さな物語)をそれぞれが力強く生きよう!
みんな違って、みんないい!的な。
おおむねそんな話。
ポスト構造主義のあと
「普遍的な正しさ」(大きな物語)がある前提はもうやめ!そんなものは無いんだ。かつてある感じがしてたけど、もうないことにしよう。
そうでないと「○○と言うシステムに属している限り、そのシステムの外側には出られない。」的になって、どんづまりだよ・・・
それで個々、個別、各個人ごとの差異「小さな物語」をそれぞれが力強く生きよう!となるならば、力強くったっていろいろあるでしょう(笑)だから
「各自がどう生きるか」
って話になるんだろうなと思う。
九鬼周造
日本の哲学者、九鬼周造(1888年2月15日 - 1941年5月6日)って人は「いき!」に生きよう。的なことを言ってて、ようするにこの「各自がどう生きるか」についての考えごと、その文脈に分類できそうかな。
ニーチェ
※そう言えば入れ忘れてたと思ってアップ後あとから追記。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)年代はズレるけど、生き方みたいな話の分類。そのスター。
妬み、恨み(ルサンチマン)に落っこちてウジウジすんな!すべて手に入れる「力への意志」だ!!強くなれ!!力を欲しろ!!そしてもし人生が永遠に繰り返す(永劫回帰)としても、そんなもうぜんぜんやる気でない究極最悪のニヒリズム(虚無主義)状態においても、たった今、この瞬間の我が生命を肯定し続けて生きていく!「超人」たれ!!
「各自がどう生きるか」
他にもいくらでもこの手のお話はあると思うんだけど「各自がどう生きるか」について、こうするといいよ!みたいな話はナンセンスにも思うな(笑)
それじゃ結局、誰かのアイディアに沿って生きるってことだし、同一性(大きな物語)の規模小さい版でしかない。
「ウチらはこうする!」みたいな話になって「各自」じゃなくなる。
「いき!」に生きたい人はそうすればいいし、「超人」目指す人はそれはそれでがんばってくれたまえ。各自好きにしたらいいと思うよ。
考えごと
「君たちはどう生きるか」
スタジオジブリ制作のアニメ作品「君たちはどう生きるか」と言うのがあるけど、前項までの言葉を再び持ち出すなら「各自がどう生きるか」的なね。
ここから先は筆者の考えごと
もうこうなっちゃうと、たぶんだけど、資本主義はこのまま肥大し続け、かと言って別に崩壊もせず、各自が各々、めいめいに好き勝手に「それぞれいい感じで生きる!」みたいな。だるーんとした世界となることでしょう。
でも別にそれでいいし、何なら人類は古代ギリシアからずっと考えごとを紡いで、ここまでたどり着いたんだろうな。って思う。
その超大雑把な経緯は前回まで①~④を読んでみてちょ。
だるーんとして、平和で、衣食住は満たされ、少なくともかつてよりずっと暇な世界。地球人のうち望む人にはそれを手に入れることが出来るという時代は、機械化やAIなどなど、労働の効率化が進むほどに達成されて行くことでしょう。現実にはまだまだ達成できていないけれど、それでもいつかはそうなる気がするし、この「気がする」については「そのように人類が願っている気がする」って言い換えてもいい。
平和で、外的要因による生命の危機を感じることがなく、それでいて(生命の危機を感じない対価としての)労働と言う搾取を出来る限りされない暮らしを望まない人がいるだろうか?
争いが絶えず、常に生命の危機にさらされ、そのうえ限界まで搾取されることを望む人がいるのだろうか?そういう環境でワタシは生きたい・・・いや、もちろん、いたっていいんだけど、超少数派だろうから、その人たちだけで何処かの無人島に移住して暮らしたらいい。テクノロジーの進歩はそんなことだって可能にしてしまうだろう。
願いが叶うって、とってもいい!「君たちはどう生きるか」に対して、「ワタシは○○のようにして生きます!」と言う願いが叶っちゃうならば、テクノロジーの進歩、そのポジティブ例じゃないかな。いい感じ。
「ワタシは○○のようにして生きます!」が叶ったあと
あとはこの「ワタシは○○のようにして生きます!」が叶ったあと、どう過ごすかってことなんだと思う。
東洋哲学の文脈、日本には十牛図と言うのがあって、これはもともと中国では八牛図だったそうだけど、2枚の絵が追加された。悟りを開いて、梵我一如へ到達し、主観と客観はひとつになり(手塚治虫風に言えば)コスモゾーンへと至り宇宙とひとつになった。からの結局またふと目を覚ませば、そこには世界があって、おっちゃんと童が。
童「悟りを開いて、それでどうなったんですか?」
おっちゃん「うーん、まあ何も変わらんよね。お茶を一杯もらうかな。それで茶を飲んでシャッキリ目を覚ましたらさ、いまを味わって生きるってだけかな。」
って、禅話があるそうなんだけど「悟りを開いて、生きていく」って、まあだから好きにしたらいいんだと思う。そんなのYouTuberが「好きなことで、生きていく」って言ってるのと同じでさ、例えば日本のYouTuberで最も成功した人と言って良さそうなヒカキンさんだって「ワタシは○○のようにして生きます!」が叶ったのだろうけど、それでもライフゴーズオン。人生は続いてくんだよね。
どうしよっかな?考えごとには言語ゲームと言う限界があるみたいだし、身体を使った遊びなんかいいと思うんだなあ。知らない街を散歩して、美味いもの食ってさ、それに酒、あとサウナもいいね。身体を使って遊ぼう!
まあ何でもいい。一期一会、各自、個別のいまを生きる!
・・・で、どうするの??
各自個別ってのも寂しい
各自がお茶でも飲んで、シャッキリ目を覚まして個別のいまを生きる!
でも各自、個別って連呼するのも、何だかちょっと寂しい。
もっと誰かと交流したいけど、かと言って同調、共有の果てには、同一性(大きな物語)に逆戻りしそうだよ。
オレたち人類は「普遍的な正しさ」(大きな物語)を追うのをひとまずやめたんだったろう?忘れたのかい??
「○○と言うシステムに属している限り、そのシステムの外側には出られない。」そのどん詰まりを打破するんだ!ってさ
差異(小さな物語)をそれぞれが力強く生きよう!
って、その地点までたどり着いたんじゃなかったのかい??
じゃあどうするのかと言えば
じゃあどうするのかと言えば
「人の心にイイ感じで踏み込もうとする」
ではないだろうかと筆者は考える。同調でも、共有でもない。ただ「踏み込もうとする」のだ。「踏み込む」んじゃない。そうしたら同調や、共有への圧力になってしまう気がする。
ただ「踏み込もうとする」しかも「イイ感じで」
要するに何でもいい「ワタシは○○が楽しいと思う!」って、出来る限り全身全霊でプレゼンするんだ。それはYouTuberも同じ、このnote記事も同じ。
プレゼンが上手く行ったらそれが届くんだろうし、上手く行かなければ、採用されないだけだ。結果については問わない。けど、出来ればせっかくの全身全霊のプレゼンなんだから届いたら嬉しい。
もしこれを読んでいるアナタが会社員だったとしたら、その会社のプレゼンだって同じなんだ。
全身全霊のプレゼン。それが届いたら、採用されたなら、嬉しいだろ?
そう、嬉しいのだ!
届いたにせよ、そもそも対象とする範囲が狭ければ届く相手は少なかろう。
それに、基本的には届かない・・・
届かないことが基本・・・だけど、それでいい。
届いたら嬉しい。だから出来る限り全身全霊でプレゼンするんだ!!
だから、ぼくにしてはがんばってこの<「哲学」ってなあに?ジャズギタリストが書いてみた>と言うnote記事のシリーズを①~⑤まで書いてみた。
出来る限り全身全霊のプレゼンのつもりで書いた。
「何を」「何が」とは言わない。でも「何か」届いたら嬉しいな。
少し長いけど最後に、福本伸行先生の歴史的名著『賭博黙示録カイジ』から引用しよう。命がけの鉄骨渡りをするカイジと佐原。落ちれば死が待っている。二人はただ個別、異なる鉄骨を各自それぞれ渡っていて、お互いに救い合うことは出来ないのだ。
突然だけどぼくは「哲学」が大好物なのです。
「哲学」が大好物だと言うと、なんか宗教?と思われたり、「思想強そうww」とか、ようするに煙たがられたりするのだけど、それはぼくにとって何とも生きずらい。
ぼくが好きな音楽や哲学は何とも伝わりづらい。前者は目に見えず、理解するためのリテラシー獲得がとてもニッチ。後者はまあ何と言うか話が長くてめんどくさいとかそう言うことでしょうね(笑)すまんね。
それでも哲学って面白いし楽しいよ!と伝わったらいいなと思っている。先に引用した福本伸行先生の歴史的名著『賭博黙示録カイジ』からの一節、その中から再度一部を抜粋引用してお別れ。
プレゼンは以上です。
哲学に興味を持っていただけたら幸い
とても嬉しいです
もし興味を持っていただけたら、下にリンクを貼っておくので①~④を読み返したり、何か本でもブログでもYouTube動画でもいいので探してチェックしてみてください。
こんな面白くて、全員参加が可能なことは他になかなかないと思う!!
今回のシリーズ記事は以上です!
最初から最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。何かが届いていたらとても嬉しいです。
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