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干からびた胎児

   第一曲〈兵士〉



 残酷に殺せ、できるだけ凄惨に。それがこの戦争を終わらせるために必要なことだ。上司はそう言って私たちを送り出した。厚い雲が覆う空の下、二十人が乗ったボートは波間に揺られながら、上陸作戦の合図を待っている。数十メートル先の海岸には大砲や鉄柵のバリケードが物々しく鎮座している。敵部隊はどこかに隠れているらしい。不気味なほど静かである。空白のような時間が一刻、一刻と過ぎ去っていく。一人の兵士が十字を切る。一人の兵士がお守りを握っている。一人の兵士が緊張のあまり、海に向かって胃の内容物を吐き出す。それぞれがそれぞれに思いを抱えて生きている。それが、たまたまこの瞬間に集約されている。ただそれだけだと言うのに。後悔はない。だが、まるでそれとは別の位相に心身があるような気さえする。

 不意に隣の小隊長の無線機に連絡が入る。それを聞き終えると彼は手を挙げる。合図である。号令とともに兵士たちは雄叫びをあげる。ボートが物凄い勢いで発進し、あっという間に海岸にたどり着く。すると、隠れていた敵部隊の人間たちがわらわらと現れ、まず一発目の銃声が鳴り響く。それになだれ込むように銃声の嵐が海岸を覆っていく。私は銃を構え、目の前の敵に狙いを定めて、引き金を引く。すると、目の前の人間は力が抜けたように地面に倒れる。一人、また一人と弾丸を浴びせて敵を倒していく。倒れて悶え苦しむ者、糸が切れたように死ぬ者、逃げだす者。関係なく弾丸をばら撒くように撃って、撃って、撃ちまくる。不意に涙がこぼれる。自分はなんのためにこの死屍累々を走り抜けているのか。わからない。酷く手が冷たい。曇った空がまるで頭の中に透明なドームを作っているようだ。歯を食いしばって、頭に浮かんだ考えを振り払う。仲間もまた次々と死んでいく。砂浜は血痕と死体で埋め尽くされていく。なぜまだ生きている。なぜまだ生きようとしている。

 咆哮を上げる。が、それは飛び交う銃声に掻き消されてしまう。頭の中を必死に整理しようとするが、本能がそれを拒む。パニックになりそうな頭を必死に回転させ、敵を血走った目で探す。手元の銃がカチャカチャと音を鳴らす。恐怖である。恐怖とは最も純粋で汚れのない感情。それに今私は乗っ取られている。

 カチッと、足元で音がした。それが何かを考える脳が鈍る。が、もう何もかも投げ出したいという気持ちが勝る。その瞬間に緊張と弛緩が同時にやってきて、意識はそこでぷっつり途切れた。


   第二曲〈ピアニスト〉



 だんだん遅く、呼吸は浅く。待合室で目を瞑って瞑想している。ピアニストであることの矜持はある。皆から期待されていることも。とにかく私にとって今まさに必要なのは勇気だった。王室での独演。ピアニストにとってこれ以上の名誉は無い。父親は初めてよくやったと言ってくれた。母親は泣きながら私を抱きしめた。多くの者はたどり着けない場所。夢破れて橋の下で生きる人間もいる。自分は恵まれていると感じる。そして、運もある。あの時師に出会わなければ、あの時バーに行かなければ、あの時音楽を辞めていたら。その全てが自分の運命を指し示しているような気がする。

 ドアノブが回される。どうやら自分の出番が来たらしい。王族の従者らしき男はうやうやしく頭を下げると、私に王室の間に来るように言った。飾られた鏡を見て身だしなみを整える。何も恐れることはない。今まで培ってきたものをそこで吐き出すだけだ。従者に礼を言い、開けられたドアから廊下に出る。廊下の壁には様々な絵画が飾られていく。その一つ一つが私を見ているような気がする。やがて王室の間の前に着く。豪奢なドアの両脇には礼服に身を包んだ警邏隊の人間が立っている。私が頷くと、二人は重いドアを開ける。フゥ、と一息。眩いばかりの光が目に入る。目が慣れてくると、長方形に長い王室の間の形状がわかってくる。中央にはグランドピアノ。一番奥の王座には国王と妃が座っている。歩き出す。コツコツという音が王室の間に響く。中央のピアノの前に立つ。一礼すると、静かな拍手に包まれる。拍手が止むのを待って、椅子に座る。少し調整をして、それから鍵盤に指が触れる。とても冷たい。心地よい感覚。今までの経験が走馬灯のように頭を流れていく。そして、行き着くのは一つの譜面。最初の一音。会場が息を飲むのが聞こえた。だんだん早く、呼吸は深く。一音毎に指先は軽くなっていく。意識は微睡みの中のようにピアノの音に熔けていく。心地よい感覚がピアノから放たれる音によって整理されていく。私は光の中にあった。

 感情の揺れ動くままに指を滑らせる。ピアノからはこの世のものとは思えない音が鳴り響く。目を瞑り、これまでを思う。日常の中にある不思議、苦悩、歓び、全てがこの曲の中に集約されていくような気がしていた。終曲に向かう。鍵盤を叩くスピードは上がり、背中に汗が滲む。そして最後の一音。拍手喝采。その瞬間に緊張と弛緩が同時にやってきて、意識はそこでぷっつり途切れた。

   第三曲〈カブト虫〉



 夜を煽ぐように鞘翅がひらく。体全体に力を込めて木の表皮から飛び立つ。ブウウウンという音が自分の背中から聞こえてくる。飛んでいる。理想はもっと高い空を飛ぶことだったが、今はそんなことは言っていられない。早急に栄養分を補給する必要がある。敏感になった嗅覚を頼りにクギの木を探し回る。

十秒も飛ぶと目的の木が見えてくる。減速をしてピタッと木の表皮にカギ型の脚を張り付ける。着地成功。そして絶好の位置である。数十センチ先に目的の、いわゆる樹液がへばりついている。とろりと重力に沿って流れている樹液はあまりに魅力的である。急いで六本の脚を動かしてそこへ向かう。すると、どこからともなくブウウウンという羽音が聞こえてくる。やがてそれはこちらに近づき、自分のいる木の、上の方でピタッと止まる。急いで脚を動かすが間に合いそうにはなかった。樹液の袂にたどり着いた時には自分の姿と瓜二つ、いや一回り大きい同種族と相対していた。静かに睨み合う。刹那、大きなカブト虫は立派な角を振り上げて襲いかかってきた。私は咄嗟に自分の角で対抗する。角と角がぶつかり合い、衝撃で後方に弾かれる。分が悪い。相手は一回りも自分より大きい。それに目つきがギラギラしていて、闘争心に満ち溢れている。対して自分はできることなら争いたくはなかった。だが、そんな願いも虚しく、相手は角を振り乱してこちらへ向かってくる。私は必死に抵抗した。が、力の差は歴然だった。段々と押されてじりじりと後退していく。相手は勝ち誇ったように体を持ち上げる。その一瞬だった。私は角を相手の体の下に滑り込ませ、一気に力を込める。するとてこの原理で相手の体は宙に浮き、そのまま重力に逆らわずに落下していく。私はそれを見届けることなく一心不乱に樹液の元へと歩み寄る。木の肌から噴き出したそれを一口舐めると、身体中に生気が戻っていく感覚がした。不意に涙がこぼれそうになったが、この体ではそれは出なかった。夢中になって樹液を舐めとる。昔のことが思い出されたが、それはもう過去のこと。今はこの悦びに包まれていたかった。やがて、他の虫たちが集まってくるが、もう気にしない。ジュルジュルと蜜を啜り、次の食事までのエネルギーを蓄える。それが今の生きる道だ。

 バサッ、と視界が真っ白に染まる。やられた、と思った時にはもう遅かった。白い空間の中でもがくが、それは自分の刺々しい身体にまとわりつき、やがて疲れきってしまう。私を捕らえた巨人は嬌声を上げ、巨大な指でむんずと私の体を摘む。抵抗はもうできなかった。私は汗も涙も流れないこの身体を恨んだ。その瞬間、緊張と弛緩が同時にやってきて、意識はそこでぷっつり途切れた。



「さて、この子の名前はなににしようか」
 母親のふっくらしたお腹をさすりながら、父親はそう言った。

〈了〉

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