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わたしは世界に出会った〜『世界』癒えない傷、終わらない戦争を読んで〜

何年か振りに、雑誌を買ってみた。

高校までは毎日をジーパンで過ごし(私服の高校だった)、大学生の頃はすっぴんに志茂田景樹ばりの原色カラフルコーデで通っていた私だ。ファッションや美容に無頓着な青春時代を送った身なので、自分の稼いだお金あるいはお小遣いで雑誌を購入した記憶は数えられるほどしかない。

だが、雑誌と一口に言っても色々ある。芸能人やモデルの写真やファッション情報で埋め尽くされているものだけではないのだ。

珍しく私が買ってみた雑誌は、その名も『世界』。
岩波書店が手がける1946年1月創刊の歴史のある雑誌で、日本の戦後史を牽引してきた、いわゆる学術誌に当たるだろうか。2024年9月号の特集は「教育とジェンダー」「癒えない傷、終わらない戦争」の二つ。政治・経済から社会・文化・教育など多様な問題を取り上げる論壇誌というジャンルらしい。言ってみれば、お堅い雑誌。

どうしてこれを手に取ったかといえば、イラクで「絵本と演劇で紛争を止める」をテーマに平和教育活動や人道支援活動を行うピースセルプロジェクト(PCP)の代表・髙遠菜穂子さんの記事が載っていると知ったからである。
私は今、縁あってこのピースセルプロジェクトに関わっている。

「紛争地の生とかかわり続けて」というタイトルで、髙遠さんとドキュメンタリーディレクター・金本麻理子さんのオンライン対談の様子が綴られている。イラク戦争の直後から現地で20年に亘って支援活動を続ける髙遠さんが、紛争地で実際に体験されて来た、戦争が心身に与える影響について、つまりトラウマやPTSD、それに対する取り組みについて話されている。

イラクでは、IS(イスラム国)に何千人もが虐殺されたヤジディ教徒がトラウマケアの対象として挙げられるそうだが、特にここで語られるのは、ISの元子ども兵達のトラウマケアについて。つまり、加害者側のトラウマだ。

ISによる迫害や襲撃による被害者がマジョリティであるイラク社会では、当時赤ちゃんであったIS元子ども兵に対しても、「ISであるなら絶対に許せない」という意識を持つ人がほとんど。
そうした断絶の意識により、ISの元子ども兵達は復讐を恐れて故郷には帰れないし、彼らの社会的受け皿は決して用意されてはいない。出所したものの、居場所を見つけられずに孤独感や疎外感を深めて行けば、且つ、物理的に働く手段がなければ、再び武装勢力に入るしか生きる道はないという。

加害者の人間たちがやったことは簡単には許し難いことだ。だが、彼らを許さない姿勢を貫き続ければ、分断は益々その溝を深めていく。逆に言えば、相手と向き合うこと・寄り添うことが進んでいけば、将来の暴力の抑止につながる。

そのための活動を進めているのがPCPだ。PCPは、ユースセンターを開設して青少年の戦争トラウマケア、職業訓練、演劇を取り入れていくという。エンパシーを高めることで対話を深め、許し難い相手と同じ場を囲むために演劇を取り入れているが、このPCPなのだ。

同じく演劇に片足を突っ込んでいる者としては、演劇が世界平和につながることに(無論それは容易なことではなく、30年計画でイラクの社会統合を目指しているそう。)、そのための取り組みを続けている人たちがこの地球上にいることに甚く感動し、世界の尊さを知ったのである。

「紛争地の生とかかわり続けて」の他にも、「戦争のトラウマを可視化する」「『加害責任』の世代間伝播 『満蒙開拓』と祖父と私」「戦争で壊れた父親と向き合う」「自衛隊と戦場ストレス」というタイトルで、ジャーナリストや専門医、戦争によるPTSD患者を身内に持つ者らが、戦争によるトラウマとその影響について語っている。

それらを読むと、80年近く前に終戦した第二次世界大戦ですら、未だに終わっていないことがよくわかる。

たとえば、「戦争で壊れた父親と向き合う」で語られるのは、戦地に赴いた父がPTSDを発症(といっても、当時は戦地でのトラウマから精神を病んでも、精神の脆弱さのせいだと非難され、精神患者の存在も隠蔽されていた。)して戦争から帰ってくる。変わり果てた親はその後破滅的な人生を辿っていく。そうした親たちによる子どもへの虐待は、世代間連鎖を生み、この令和の時代を生きる子どもたち世代にも繰り返されていく。そんな実例が、決して珍しいことではなく多くの家庭で見られたこととして語られている。

つまり、「戦争によるトラウマ」とは、遠い国の、遠い時代の出来事だとは到底言えっこない、ということだ。「全ては地続きでつながっている」と髙遠さんご本人も仰っていたが、生命に関わる体験を通じての恐怖や無力感や自責の念は、横軸にも縦軸にも伝播して、深くその影を落とし続ける。


それに、平和な国にあっても、恵まれた環境で生きてきても、誰もが何らかのトラウマを抱えているのかもしれない。

「トラウマ」という単語で思い出す至極個人的な出来事というと、中学1年生の初めての歌の発表会。親戚一同総出で来てくれたのに、私の歌があまりにも下手過ぎたのか、帰りの電車で家族の誰一人一言も喋らなかったことが、私にとってはトラウマなのだ。それまでも歌が上手いとは1ミリも思っていなかったけれど、これが私に歌の苦手意識を植え付ける決定的な出来事となった。舞台に立つことは好きなのに、人前で歌おうとすると声がふにゃふにゃのぶやぶやになる。だから、カラオケは嫌いだ。

もちろん、こんなことは紛争地に生きる人々のトラウマと並べて語られるべきではない。大仰すぎるし、失礼だと批判されて当然だ。
だけれど、「それはトラウマ体験だね」と言ってくれる人があって、私は大部救われた。トラウマだと認めること、傷ついたと認めることで、少なからず癒されることがある。

一方で、中村江里氏による「戦争のトラウマを可視化する」では、トラウマは表面化しにくい実態を取り上げている。世間の目や経験の有無による分断があり、非当事者たちは当事者のトラウマを軽いものとして扱いがち。「男たるもの」といった理由で口を開くことすら許されない現実が、80年前の日本にも現在のイラクにも、ある。

イスラム社会には男性が弱音を吐けない、強くあらねばならないという規範があって、それは実な大きな問題です。

という髙遠さんの記述もあるが、あらゆるしがらみや規範や常識が枷となって社会の発展を妨げてはいないだろうか。それらから解放されることで、我々は大いに救われるし社会は前進する。イラクでも日本でもどこにいたって、私たちは「〇〇としての自分」といった属性や肩書からは逃れられない。それが互いを苦しめる。

男性性を求められるジェンダーの問題や社会的性差における分断も、根深い問題だ。この『世界』では、ジェンダーについてもあらゆる角度から論じられていて、それらはやはり結びつく事柄として語ることができるはずだ。

記事の中で紹介されている
映画『ほかげ』は、戦後の日本で戦争の傷を抱えた者同同士が生きる姿を描く


到底赦せない過去があった時、そこからどう未来を築いて行けるだろうか。

赦しとは、他者に対してでもあるが、自分自身に対する面もある。あることをしでかしてしまった自分、傷つけたことによって傷を負った自分からどう再生するのか、更生するのか。

なんのために過去はあるのか、なんのために記憶を持つのか。過去の経験や記憶から学びを得てより良い未来を構築するため、であって欲しいが、それすらも叶わない人たちが現実にはいる。

「『加害責任』の世代間伝播──『満蒙開拓』と祖父と私」で胡桃澤伸氏は、村長として満蒙開拓に加担し、自分の村の者たちを集団死に追いやった祖父について語る。祖父は自責の念から自死に至るのだが、自身が子どもの頃に遊んでいた場所は祖父が首を吊った部屋だと大人になってから知ったという。

知らないというのはこういうことなのだ。近くにいて目には入っていてもその意味がわからない。

私もまた、この雑誌をいつかどこかで目にしていたはずなのに一度も手に取ることはなかった。書店で目に入っていたはずだが、お堅い雑誌だからと敬遠していた。興味すら持たなかった。

だが、私は出会った。出会えた。『世界』に。

これはやはり、PCPに出会ったからこそ巡って来た出会いなのであって、今回のことに限らず、今までにないアンテナが自分の中に立ち始めた気がする。今まで見えなかったことや聞こえていなかったことをキャッチして、気づかなかったことに気づく様になった。具体的なアクションとしては動けていないけれど、自分の中のチャンネルが増えた感覚だ。受け取ることも行動の一つとしてカウントして良いのならば、私の行動は少しずつ広がりつつある。

「私には伝えるべきことがあるのではなかろうか」とも、この頃は思っている。この勝手な使命感は、自己実現のためでしかないかもしれない。だけれど今、私は世界を知りたいと願っている。

自分のためでしかないことが社会のためになるのかもしれない。トラウマケアが進んでしまうと、戦地に送り込むハードルが低くなってしまうのではないか。私は誰かにトラウマを植え付けてしまったことはないだろうか。
ジーパンでなくスカートを履いて化粧を施した私は、初めて買ってみた雑誌をパラパラとめくりながら、とりとめもなく考える。考える考えるかんがえる。

考えたって答えの出ないことは無数にある。世の中のほとんどのことに正解はない。だけれど、考えたって仕方のないことと諦めるのか、考えることに意義があるのだと希望を見るのかで、この先の未来は大きく変わるかもしれない。

私はまだ、諦めたくない。もっと多くのチャンネルで自分を眺めてみたい。

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