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瑠璃空に愛を。 ④
「ここ......…、」
どこ、と小さく呟いた。答えは返ってこず、仄暗い月夜の光だけを頼りに見回した部屋は、入院していた頃に与えられていた4人部屋の一画よりだいぶ広くて、けれどどこか無機質で温かみに欠けていた。
それが見知らぬ場所にいる事の怖さに拍車をかけた。
「だれ、か」
居ないの、と恐怖に掠れる声を絞り出す。
コンコンーーーー
こちらに向けて響いたノック音にひゅっ、と自分の喉が文字通り鳴るのが分かった。静かにして、いなければ。誰が何をしに来ているのか分かるまでは。
「叶さん.....…、眠れない?」
ガチャリ、という扉の解錠音と共に顔を覗かせたのは、この1ヶ月で馴染んだ藤宮さんだった。彼が持つ懐中電灯のおかげで、部屋の内装がなんとなく薄暗い中でもつかめて、ほっ、と心の底から安堵のため息をついて、ん.....と頷く。
「少し話そうか」
「はい...…」
懐中電灯をつけたまま、彼がそっと半分開いていたドアを開けて入ってきて、ベッド際に胡座を描いて座った。
「気がついて良かった。叶さん、丸2日眠り続けてて、スタッフ皆とても心配してたんだよ」
「え....…、」
「もしかして、覚えてない?」
心配そうにこちらを見てくる彼に、記憶の糸を手繰り寄せるようにしたけれど何も浮かんでこなかった。
「私...…もう退院してるはずじゃ、」
ないの、と呟いた声に藤宮さんがゆっくり首を振った。
「記憶が、ないんだね。よほど辛かったんだね...…」
「なんの話ですか...…?」
分からない。分からない。自分の事なのに、自分が何かしたから藤宮さんがそう言うのに、なのに何も分からない。
怖い、こわいと泣きじゃくり始めた私の背中を、藤宮さんは撫でながら言った。
「明日先生が叶さんの様子を見に来ると言ってたから。それまで何も考えずに休んで欲しい」
ごめんね、と彼が謝ってくる。何がどうして、どうなっているのか。けれど藤宮さんは多分、別に悪くない。きっと、何もかも私の所為だ。
追加眠剤を貰い、おやすみと静かに部屋を出て行った藤宮さんの背をぼうっと数秒眺めてから、私はシーツのかかっていない、薄い掛け布団に包まった。
脳はひどく疲れているはずなのに、2日間眠っていた所為で、身体の方は疲労による眠りを誘ってくれない。
ぎゅっ、と身体を出来るだけ丸く小さくして私は目を瞑った。
明日私は、欠けている私の何を知るんだろうか。
現実逃避をするかのように、私の脳は自然にしばらくしてシャットダウンして眠りについたらしい。目覚めたら、朝日はとっくに昇っていて、朝食を看護師さんが手ずから持ってきてくれた。
「すみません、わざわざ」
そう言って看護師を見ると、自分のプライマリーだった。
「名木(ナギ)さん...…」
「私、プライマリーなのに何も気づけなくて....…ごめんね、叶さん」
泣きそうにする彼女になんと言ったものか迷ってから、そっと手を握る。
スッと細長い綺麗な指をなぞるようにゆっくりと繰り返し撫でると、名木さんが鼻を啜る音が聞こえてきた。
「また話に来ても、いい?」
他の人の食事配らなきゃ、と数分してから名木さんは涙でくしゃくしゃにした顔を拭いて立ち上がって振り返ってきた。
「うん。来てね」
笑ってみせると、名木さんも申し訳なさそうにしつつ小さく笑ってくれた。
ーーーーーーーーー
先生は、お昼前には病棟に来た。
通称、ハードと呼ばれるらしいこの部屋から出て、名木さんに連れられるまま診察室へと歩みを進める。
「はい、こんにちは」
いつも通りの挨拶をする彼の、瞳がこちらの様子を伺うようにしたのは気の所為だろうか。
「こんにちは....…」
診察室に置いてある丸椅子に座ると、彼が素早くPCに何かを打ち込んだ。
「あ、の」
「はい、」
「私.....…」
どうなったの、とは喉が詰まったようになって言葉にならない。けれど彼は1年ちょっとの付き合いの中で、私の事をよく見るようになった。
「一昨日の前の晩に自殺を図ったの覚えてないーー?」
「え........っ、」
彼の口から出た思いもよらない言葉に、私は思わず自分の左腕を右腕で掴んでさすった。そうでもしなければ。身体が震えてしょうがない。
彼はそんな私を見て、看護師さーんと後ろに呼びかけていた。
「はい、水澄先生」
「あぁ、叶さんの傍にいてあげて」
「あ..…はい、叶さん、大丈夫。大丈夫だからね」
すぐに察したらしい看護師さんが、私の横に余っていた丸椅子に座って背中をさすってくれる。
「ちょうど巡視の時間に近くて発見が早かったらしいから良かったけれど、」
彼が私を真っ直ぐに見てくる。感情がほとんど見えなかったはずの彼は、1年ちょっとでだいぶ進歩した。
今の彼の感情は何色だろう。私のは黒が所々点として存在する灰色だ。現実と自分の境目がぼんやりして、けれどどこかで、現実をきちんと認識している部分がある。たとえどんなに目を背けたくても。
怖い。何を言われるんだろう。なんとなく分かっているはずなのに、私はこの瞬間まで現実逃避をして分からないふりをする。
「まぁ、....…もうしばらくは入院だね」
「.....…そう、ですね」
しばらく、ってどのくらいなんて聞ける間柄にはなったはずなのに、今は初めの頃とも違う距離が、私達の間にあった。いや違う、彼は縮めようと分かろうと近づいてきてくれるのに、訳の分からない罪悪感という名の色が私を彼から遠ざける。
私が自殺しようがそれは私の自由のはずなのに、どうして私はこの人に罪悪感を覚えているのだろう。
私はこの人にだけは、いつだって自分の感情を素直に表現していた。そうしないと、彼が分かってくれないと理解した時からずっと。そうやって、ぶつけてきた結果、彼も私という「人間」に興味を持ってしっかり向き合うようになってくれた。
叶さん、と呼ぶそれに彼なりの親しみが込められている声音に聴こえ始めたのはいつからだったろう。
ぽた、と薄手の部屋着に涙が零れて床に弾けた。
「今までは任意入院だったけれど....…これからは医療保護だねぇ」
医療保護だ任意だと意味は分からなかったけれど、それより私にはそれでも聞かなきゃいけない事がある。
「.......…、先生、私って病気なの」
感情が薄いはずの彼が目を丸くして、それから目尻を下げて私を見た。
「そうねぇ。僕はそう思ってますよ」
優しい、けれど確かな肯定。
「なん、の」
「まぁ難しくてね、診断はねぇ。けれど、躁鬱か鬱かな....…躁鬱は双極性障害とも言うんだけれど...…そうそう大学で習ったんじゃない?」
うつ、はなんとなく知っている。躁鬱はまだ習っていなくて、首を振った。
「そっか...…まぁおいおい分かる事ですよ。少なくとも診断がはっきりつけられて、安定するまでは、ここに居てもらおうかなと」
そうでないと、治療方針がきちんと立てられないまま退院させる事になるからだと、瞬時に理解した。それは、きっととても危なくて危うい事だ。精神科医にとって、精神科の患者をそのまま退院させるのは。
だけれど。それをこの人は一度、私に許そうとしたのだ。
土曜日、退院しているはずだった日。退院の話が出た時、私はまだなんの病名も伝えられていなかった。それでも、私がこれ以上は嫌がったから閉鎖病棟という籠から放してあげようと。
どんなに不安だったろうか。
俯いて涙だけ流す私を、先生は責めるでもなくただ看護師さんと同様、静かに座ってこちらを見ていた。
「叶さん。僕は、あなたの主治医だから」
だから、と彼が続ける。
「あなたを守る義務がある。あなたを傷つけようとするあなた自身から」
守る。命を守る。それが先生の仕事で、それが先生の選んだ人生だ。医者でなければ縁のなかったはずの他人の命を、出来る限り自死から救い上げて繋いで。
なら私が患者でなければ、先生はどうしたのだろう。私をこんなに助けようとしてくれただろうか。
やめてよ。主治医だから、なんて言い訳みたいな言葉聞きたくない。「私」が叶癒空という人間だから、だと言って欲しい。
「私」という個人だからだと、あなたが私と向き合ってくれるようになったのはそういう意味じゃなかったの。
「昔の事もね、カウンセリングでゆっくり扱っていきます。叶さんの場合は病気もあるけれど幼少期の....…被虐待記憶も絡む複合型なので」
難しいんです、と彼が言う。
向き合って、ぶつかり合って、なのに結局私と先生は遠いまま。
分からない。あなたが分からない。私を助けようとしてくれる、その気持ちは嬉しいのに、どこか寂しく悲しがる自分がいる。
あなたは、いつの間にかこんなにも私の心に入り込んでしまった。
【癒空、21歳秋】
梅雨が明け、夏が終わりに近づいても私はまだ閉鎖病棟で日常を過ごしていた。先生が頑として、私の退院を許さないから。
いつになったら私は出られるのだろう、と焦る反面、誰も私に無理を強要しないこの場所が時折心地良いと感じる自分がいて。
それは昔与えられなかった、安らぎの場所。どんなに手を伸ばしても届かなかった場所が、今、ポンと与えられて扱いに戸惑っている。
先生も泉さんも、藤宮さんも名木さんも誰も、私にああしなさいこうしなさいと言わない。それは医療従事者として正解なんだろうけれど、そういう優しさで包み続けるとして、私達精神病患者はいつになったら籠の外へと羽ばたく覚悟を持てるだろうか。
とりとめのない思考が今日も、私の脳内を渦巻く。それらをノートにただ思うように書き付けながら、私は今日を振り返る。
今日は、週に2回ある診察日だった。自殺を図った後、入院形態を医療保護に切り替えられた私に、自分の意思で退院する権限はもうない。家族の同意か、主治医の許可が必須だ。
だからもう、何も言わなかった。先生の気の済むまで、ここに居るんだろうと覚悟したし、それは間違っていないだろう。人権が制限される精神科における精神科医の権限は絶大だ。
あの日、私はベッド際のナースコールのコードを首に巻いてベッドから半分ずり落ちるような格好で首を絞めていたと、後から藤宮さんに聞いた。そう話してくれる彼の目は凪のように穏やかで、だからそれが自分からはひどく遠い話に聞こえた。記憶が飛んでいる分、余計に。
けれどそれは紛れもなく自分のやった事で、それが故に私は今「ここ」にいる。
「今でもきっと死にたいよね」
死にたい?ではなく、柔らかな断定。それをありがたく思いながら、小さく頷く。
「胡散臭く聞こえると思うけれど、それでも生きて欲しいと思うよ」
前置きに苦笑して、私は何も言えない代わりにそれにも頷く。死なない約束は出来なくても、その意思は、生きようと思う意思は確かにあるんだよと示す為に。
カウンセリングも週1で続けている。泉さんは、私が自殺未遂を図ってから初めてのカウンセリングで、涙していた。
「叶さんが生きていてくれて、本当に...…っ良かったです...…」
私も涙が止まらなかった。自分が死のうとしたが故に泣いている彼女を見て、先生に感じた罪悪感とはまた別の罪悪感を覚えた。
悲しませるつもりはなかった。自分が死んでも、彼女は大丈夫だろうと何故思ったのだろうか。
それでも、彼女が泣いてしまうのはいき過ぎだとどこかで冷静な自分がいた。たとえ担当患者でも、患者は患者でしかなく、心理士をやっていれば患者を失う可能性はゼロでは全くない。その度に彼女は泣くのだろうか。それでは彼女のメンタルが保たない。
だから泣いて欲しくなかった。ここまで悲しんで欲しく、なかった。
私は突き付けられたのだ。私の命は私の物で、だけれどもう私の物だけではない。
私は、自分の自分勝手で身勝手な行動で、誰かを悲しませた。家族でもなんでもない、本来悲しまなくて良いはずの人を。なにより、私の大事な人を。私を初めて、無償で可愛がってくれた人を。
「叶さんに生きていて欲しいと、思いますけれど...…叶さんの負担になってしまうと思うと、」
言えないですーーー、と泉さんが鼻を啜った。
目の奥が熱くなった。
死んだら駄目、と引き止める先生。
死んで欲しくないけれど、その上で引き止められないと涙する泉さん。
どちらも優しさ故の、言葉で行動だ。
文字通りひとりぼっちだった昔に比べて私は今、どれだけ恵まれているのだろうか。こんなにも、私を気にかけてくれる人達が傍に居て。
それなのに、未だに死にたい気持ちが心の底に静かに沈んでいる。
それが堪らなく、悔しくて自己嫌悪した。