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漆黒と暗黒の高校時代編

さて、ようやく「ブログを書きなさい」て定期的に思い起こすようになったぞ!w

ということで、自己紹介をつらつらと書きます。

漆黒の暗黒高校時代

「あなたどの時代に戻りたくない?」と聞かれたら
0.2秒で答えられるほど、私にとって暗黒の時代、THE高校時代。

何がそんなに辛かったのか箇条書きにしてみた。

  • スポーツ推薦ではなく前期入試で県立高校に入学しする

  • スポーツ推薦者が10名以上いる硬式野球部に入部する

  • 強豪校にいた監督が就任して眉毛がなくて強烈に怖かった

  • バッティングを認めれて1年時から1軍に帯同した

  • 遅れてきた思春期真っ只中のような先輩にこき使われる

  • 極度のイップスに陥り1年後半からこの”イップスさん”とお付き合いする

  • 監督に「英検受けたいです」と言ったら「笑ってんじゃねえ」と3発殴られる

  • 監督に「海外派遣事業に行きたいです」と言ったら「野球しろ」と一蹴される

  • イップスを治したくて夜中まで練習していると定時制の先生が見回りに来て「そんなに練習してもうまくならないよ」と先生らしからぬ言葉をいただく

  • 勉強の成績は、入学時200名中12位から60位まで没落

  • 毎日夜中にノートに「明日来るな」と書く日々

見ておわかりのように
「イップス」「先輩」「監督」に苦しめられた3年間だった・・・。

とにかく後輩をイジりたい先輩

高校時代の先輩ってみんなこんなもんなんすかね?ww
今では結構コンプラ引っかかるレベルですが、
裸で校庭をタイヤ引きさせられたり・・・
先輩の散髪が終わるまでその散髪を見ていろと指示されたり・・・
ちゃんと胸にボールを投げないと捕ってくれないとか・・・
いい先輩もいたけど、変な先輩が多かった。

特に、見ていろっていう指示に関しては何がイラついたかっていうと、
田舎の高校なので、電車が1時間に1本しか来ないんだよ!w
というわけで、1本電車を逃して散髪を見ていた!

まあ逆に「大人になったら見返してやる」「人の気持ちのわかる大人になる」
と反骨精神が湧き出てきたのは、この先輩たちのおかげ

眉毛のない怖い監督

こんなの書いたら怒られるかもしれないけど、
振り返っても怖かったというイメージしかない。
試合前のノックのとき、上記の変な先輩にボールを投げるとき、
緊張して暴投しちゃったんですよ。
そうしたら、その瞬間に呼ばれて「目を覚ませ!」って平手打ちされた。

「目は覚めとるんじゃ!」って心の中で叫んだ。

あと、年に1回誰かがターゲットになって
監督の不機嫌さと微妙なプレーが重なったときに発生する
監督がその選手に馬乗りになって激怒する謎の恒例イベント(?)があった。

これで、萎縮せずにのびのびとプレーできる選手いるのかな?w

まあ逆に「おれが監督なら選手の強みを伸ばす・やる気を引き出す指導をする」
と反骨精神が湧き出てきたのは、この監督のおかげ

もう最高の友だちだよ、イップスくん

中学時代の自己紹介を見ていただいた方はおわかりのように、
この物語の主人公のように野球をしてきた自分にとって、
野球は自分を表現する最高の手段になっていた。

しかし、中学を卒業するくらいのとき、
「投げられない」という違和感を感じていた。

イップスというのは、極度のプレッシャーや場の雰囲気、
相手の気持ちを図りすぎて、思うようにボールを投げられなく一種の心の病。
これを治すには周りを気にせず、とにかく思い切り投げることと、
キャッチボールする相手が笑顔でなんでも受け入れてくれる大きな器の持ち主であることが重要。

後輩や保護者に醜態を晒すのが、すんごいキツい。
この時期、母親は私に声をかけられなかったらしい。

1年の後半に重症化して、沼にハマって抜け出せず、
2年に1回だけ背番号もらってベンチ入りするものの、
最後はレギュラーからはほど遠く応援団長を務めた。

自分の中では、暗黒の中を彷徨っている感覚で、
自分のお小遣いで1万円もした「イップス克服法」っていう冊子を取り寄せた。
何が書いてあったか忘れたよ!(そのレベルの内容)

克服はできなかった。
チームもプロ注目選手を擁しながら県大会初戦で敗退した。
きっと今でもイップス症状は残っているだろう。(久しくボールを投げていない)

結果的に、私は支えられていたんだ

でもね、この漆黒・暗黒・深刻な高校時代に、
光の手を差し伸べてくれる人がいたんだ。

まずは、野球部の友だち
私のイップスのことを一切言わず接してくれた。
私は2軍の主将を任されていたんだけど、夏の大会の後、
総主将に「お前がいたからおれは主将を続けることができた。ありがとう。」と言われた。
高校野球部員70名を率いる主将の人間性は、監督から絶大な信頼があった。

そして、部長さん(先生)
おそらく野球の経験は浅いけど、色々と調べてくれて、
部長さんが来たときには「こうやって投げたらどうだ?」と
ずーっとキャッチボールに付き合ってくれた。
おかげさまで、少し良くなって野球がまた楽しくなったことを鮮明に覚えている。

最後に、担任の先生
『女王の教室』を彷彿とさせる、チャイナドレスのような服を着てくる
英語の先生が、私の1年時と3年時の担任だった。
この先生は、アウェイの高校にきて縮こまっている私に、
「学級委員長やってくれる?」と指名してきた先生。
結局、私は3年間、学級委員長をやることになった。

野球の成績に完全に比例して、勉強の成績が著しく落ちるなか臨んだセンター試験。(現在の共通一次試験)
※学校推薦で国立大学を受けるものの惨敗している。

・・・・・・・ズタボロだった。

野球とともに、大学進学の道も暗くなり、日々の活力が0.5になっているなか、
担任と母と私の三者面談があった。
そこで衝撃の展開になった。
担任の先生から、

「お母さん、(私の名前)をこのように育ててくれてありがとうございます。」

隣を見たら母は泣いていた。
きっと先生は野球と勉強の成績が落ちる中でも、学級委員長を続けている私を最大に評価してくれている言葉だった。
その面談で、私の出身大学を薦められ、また受験勉強に全力を注ぐことを決めた。

この時代で得たものは、お金では買えない財産

とにかく、暗黒で絶対戻りたくない時代には変わりないのだけど、
この時代に得たものは、今の自分の大きな原動力になっていることは間違いない。

野球の試合は裏方の方々の支えがあるから成立することも、このとき知った。
3年生のときはチームの勝利を優先して、スコアラーやバット引きを率先しておこなった。

そして、野球推薦で入学した選手が試合に出て、練習を頑張っているんだけど出場機会に恵まれない選手がたくさんいて、一緒に練習していた。

このような選手たち、人材を光り輝かせたいと思ったのはこのときだ。
それが、今は仕事になっている。

今は高校生と向き合っているが、
私自身が高校時代、このような経験をして、仏様のような先生に出会ったことは、
かけがえのない財産だったと、今はすごく思う。

きっと、戻りたくない、もう嫌だって経験ほど、
振り返るとお金では買えない、自分にとっての財産なんだと思う。

ほんとに絶対に同じ経験はしたくないけど・・・w

紛れもなく、目の前に必死に、なんとかしたいって生きていたな。
貴重な経験をさせてくれてありがとう。

長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。

では、また次回!

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