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お茶のことだけ考えて 〜チャとティーの話〜

おとといの深夜、Facebookでこんな記事を見つけた。

Cha, if by the land.  Tea, if by the sea.

つまり、お茶と呼ばれるものは、陸路で伝わったものはChaと呼び、海路でTeaとなる.
貿易路によって呼び方が変わるらしい。ちなみに日本はOchaになっている。

でも、よく考えたら日本は島国だった。だとすると、By the landの陸路ではない。なんでTeaじゃないんだ?

そう疑問に思い始めたのがきのうの朝の7:30だった。それからはもうお茶のことが気になって仕方がなくなってしまった。

お茶がシルクロード(陸路)で伝わったなら、なぜヨーロッパは海路で伝わったことになっているのか

例えば、ユーラシア大陸で陸路でのお茶の文化が各地に伝わったとすれば、絹の道ことシルクロードを通してだろう。とすれば、西ヨーロッパもChaであるべきで、なぜTe系なのか? とも思った。
シルクロードを経由すれば、広い古代ローマ帝国を考えるとすぐヨーロッパには入りそうである。なんでだ?

お茶が高級品すぎて庶民に出回らなかったのか? お茶を運んでいる途中で腐ったため、トルコ周辺以降は消費されなくなったのか? いや待て、お茶は乾燥してるしなんなら諸外国では発酵したものが好まれて飲むくらいだから、その説は通用しないかも……。

なぜポルトガルだけ他の国をスキップして陸路扱いなの?

また、ユーラシア大陸の果て、ヨーロッパのポルトガルだけは陸路で伝わったcha系列だ。(ちなみにcháシャ。)シルクロードから伝わったchaが、僻地であるポルトガルでだけ生き残ったのだろうか? それとも、ローマの後の支配していたイスラム勢力の影響だろうか? でも、それだとスペインもcha系になんないとおかしいんだよなあ。でも、スペイン語ではお茶はtéだ。それか、イスラム勢力は全然関係なくてハプスブルグ家の影響なのか?

まずはお茶の歴史から

あまりにもわからなかったので、お茶の起源から知ることにした。伊藤園のお茶百科の「お茶の発祥」ページによると、お茶は中国では紀元前1世紀から知られていたらしい。そして、中国でお茶を飲む習慣が広まったのは唐の時代(618~907年)から。もともとたくさんの名前があったお茶を「茶」という漢字に陸羽さんが統一したのもその頃(8世紀ごろ)らしい。でも、その頃ってめっちゃシルクロードあるじゃん。なんで?

唐の時代(618~907年)になると、お茶を飲む習慣は全国に広がります。このころのお茶は、蒸した茶葉を搗き固めて乾燥させた餅茶(へいちゃ)が主流でした。茶葉はすでに全国で栽培されるようになっていましたが、消費地への運搬には固形茶が便利だったと思われます。(伊藤園お茶百科 中国でのお茶の歴史よりhttp://www.ocha.tv/history/chinese_tea_history/

ちなみにお茶をヨーロッパに最初に広めたのは、東インド会社だったらしい。そのとき17世紀、西暦1600年代。7〜10世紀の唐の時代にシルクロードを伝って入ってきてても良さそうなのに。この1000年のブランクはなんなんだ。(ちなみに日本に入ってきたのは9世紀(815年)くらいらしく、そのあと16世紀になって千利休が茶の湯を大成させた。)

中世ヨーロッパには暗黒時代がある

そこでひとつ思い出したことがあった。
それは、ヨーロッパはローマ帝国が崩壊した頃から暗黒時代という時代があったことだ。暗黒時代は暗いとかそういう意味ではなくて、文字による資料がわずかしか残っておらず、どういう時代かわかりにくくなっている時代のこと。記録がなくてよくわからない時代だったから「暗黒」という表現を使っている。
ゲルマン人が征服し始めた暗黒時代のヨーロッパでは、人の移動がかなりなくなっていて、みんな一生のうちに自分の村から出ることがほとんどなかったらしい。大学時代にとった都市社会学でそんなことを習った。確か生まれてから死ぬまで8-10km圏内で終えていたと思う。そうすると、もうみんな自分の生活圏内で知らないことはなくなってしまい、「わざわざ文章で残さなくてよくね?」状態になったらしい(確か)。そもそも文字を書ける人自体少なかったとは思うけど、暗黒時代はそれが加速した。

お茶の普及期と暗黒時代とビザンツ帝国

その暗黒時代が5世紀〜10世紀くらいまで続いたと言われている。そして、中国でお茶が広まったのは7世紀くらいから。たぶんその頃は西側は交易していなかったのだ。特に、西ローマ帝国と呼ばれていたゲルマン人の侵攻を受けた地域は。だから、普及期にお茶が交易で地域に運ばれることはなかった。その時代は何百年も続いた。

ちなみに、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は首都のコンスタンティノープルを中心とした帝国で、11世紀くらいにはバルカン半島まで勢力を伸ばしていたらしい。また、ビザンツ帝国は東西の交易が盛んだった。アジアの文化が多く流入していたのだ。そう思うと、コンスタンティノープルがあったトルコではお茶のことをチャイというのも納得だ。陸羽が「茶」で統一した名前がそのままシルクロードを通してビザンツ帝国まで広がり、そこで交易路は終わりを告げた。ビザンツ帝国の領土であるバルカン半島には、現代でいうとギリシアがある。ギリシア語でお茶はτσάι (ツァイ)らしい。

試しに、中国でお茶が広まった7世紀〜10世紀以降のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土図と冒頭のchaとteaの分布図を比較すると、結構キレイにchaの地域がビザンツ帝国の領土と重なった。

<ビザンツ帝国の領土図>

画像1

1025年の東ローマ帝国 wikipedia より )

<chaとteaの分布図>

スクリーンショット 2020-04-23 22.40.42

画像2

India in Pixels より

これでchaについては(なんとなく)ひと段落ついた。ビザンツ帝国を境に、交易の少なかった西ヨーロッパでは茶の文化が流入してこなかったのだ。では、なぜ最西端のポルトガルだけchá(シャ)なのだろうか?

なぜ、ポルトガルだけchaなのか

それは、大航海時代に由来があるらしい。当時結構ブイブイ言わせていたポルトガルは、広東圏であるマカオを植民地とし、そこからお茶を輸入したりしていたためだと言われている。ちなみに広東語圏はcha.

海路がTe系なワケ

その後、英蘭戦争でのイギリスの勝利で、イギリスが台頭するようになる。だが、すでにマカオはポルトガルから抑えられていたため、代わりに廈門(アモイ)を港としてお茶を輸入した。そこでは閩南(びんなん)語が話されていて、お茶をteと呼んだ。そこから、東インド会社を通してお茶が広まった地域はte系列になる。なお、インドでお茶が栽培されるようになるのは、1823年にブルース兄弟の兄によってインドの奥地アッサム地方で茶の木が発見されてから(参照)。それまではインドでは栽培していなかったらしい(参照2)。

前後するが、イギリスにお茶を広めたのは1662年にポルトガルからイギリスのチャールズ2世に嫁いだキャサリン王女らしい。当時まだ高級品だったお茶(cha)と砂糖を大量に花嫁道具として持参し、そこからイギリス貴族社会にお茶(紅茶)を広めた。だが、言葉は東インド会社の影響を受けてteaになった。その辺も考えてみるとおもしろい。(参照3)

まとめ

つまり、まとめると
①7〜10世紀 中国に広くお茶が広まる
②その頃に中国と交易があった地域にはお茶が「cha」で広まる(日本含む)
③シルクロードを通してchaがビザンツ帝国(バルカン半島)まで伝わる
④だが、その頃ヨーロッパ西部は交易がほとんどなかったため、お茶の文化流入がなかった。西側の交易がない時代は500年ほど続く。
⑤その後ヨーロッパ西部が急速に力をつけ、大航海時代に入る
⑥ポルトガルがお茶をマカオから「cha」として輸入し始める
⑦その後、イギリスが力をつけ始め、アモイからお茶を輸入。その地域ではお茶をteと呼んでいたため、東インド会社を仲介して800年越しに茶を得た文化圏はお茶をteなどと呼んだ。

厳密にいうと陸路と海路には分けられない。時代と交易する地域が関係して呼び方が変わったのだろう。

と、ここまでを調べたのが午前11:00だった。
この日は本当に朝から昼まではお茶のことしか考えてなかった。自分の疑問点をはっきりし、紐解くように自分が納得できる解にたどり着けてよかった。とはいえ、これはわたしの推測だからどこまであってるかわからないけど。この日はせっかくなので昼食をお茶のパスタにし、食後にお茶を飲んだ。

今日はうまくまとめられてスッキリしたのでまとめた次第。さあ、一服でもしようかね〜。



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